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#051  日本で最初にソロ公演したポーランドのポピュラー歌手は、誰でしょうか。
十分な資料はありませんが、もしかしたら、1980年代に3回来日した、フランス在住のアンナ・プルツナル(日本では、「プリュクナル」)(1940- )かもしれません。フェリーニ監督『女の都』などに出演した女優、シャンソン歌手として知られています。
あるいは、1987年に初来日し、1990年と1994年にコンサートツアーを行った、イギリス在住のバーシャ(日本では、「バシア」)(1954- )かもしれません。
バーシャの本名は、バルバラ・スタニスワヴァ・チェチェレフスカ。1981年に英国に移住しました。1987~95年にリリースした3枚のアルバム『タイム・アンド・タイド』(1987)『ロンドン、ワルシャワ、ニューヨーク』(1990)『スウィーテスト・イリュージョン』(1994)が、アメリカ、フィリピン、日本など、世界中で大ヒットしました(もちろんポーランドでも!)。ジャズ、ポップ、ブラジル音楽などをソフィスティケイトした上品な楽曲で、絶大な人気がありました。
日本でのコンサートツアーは、1990年の”Ajinomoto Presents ’90 Basia in Japan”と1994年の”The Sweetest Illusion Tour”の2回。特に、今から四半世紀前に行われた、2度目のツアーは大がかりで、7月1~14日に、5都市(名古屋・大阪・広島・東京・横浜)の8つの大会場(名古屋市公会堂、NHKホール、日本武道館、神奈川県民ホールなど)を回り、計10回のコンサートが開かれました。
バーシャに次いで来日したポーランド人ポピュラー歌手は、1993年4月に東京公演を行ったエヴァ・デマルチク(1941- )でしょうか。
参考資料
 http://gold.zero.jp/yuko.kr.01.e9/anna_j.htm
 https://ameblo.jp/ruirui888-az/entry-11626244309.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
 沼野充義「歌手ひとりだけの大劇場――エヴァ・デマルチク、ポーランドの『黒衣の天使』」、「ポロニカ ポーランド文化の現在・過去・未来 ‘92/第3号 ポーランド演劇特集」

#052  1990年8月30日、恒文社から「ポロニカ ポーランド文化の現在・過去・未来 ’90 創刊号」が出版されました。元東京大学教授、当時は創価大学教授だった吉上昭三(1928-1996)が責任編集した年刊誌です。
吉上は、1990年7月に執筆された「発刊にあたって」に次のように記しています。
「ポーランドの『連帯』の誕生にはじまった『東欧』の状況のめざましい変化も、もっぱら、政治・経済の次元で声高に語られているばかりで、それだけではこの状況をゆり動かしている人びとの顔もなかなか浮かび上がっては来ず、彼らの心の襞を示す文化の諸相も伝わってこないのです。/しかし、日本には、ポーランド文化のそれぞれの領域で、静かにそれについて語りあえる人たちが大勢いるのです。私たちは、地味ではあっても、それらの人たちの熱意のある語らいの輪をひろげることによって、やがて本書が日本におけるポーランドの理解と研究に、歴史的な役割を果たすものとなることを確信しています」
当時のポーランドは、社会主義圏最初の自由選挙と最初の非共産党政権の誕生に挟まれた、まさしく「めざましい変化」の時代でした。
ポーランドの映画、音楽、フォークロア、宗教、美術、文学などに関する論文が掲載された創刊号には、責任編集者自ら「ポーランド文学と加藤朝鳥」という、ポーランド・日本文化交流の基礎文献を寄稿していました。
「ポロニカ」は、吉上昭三の死によって、残念ながら第5号で終刊しましたが、「日本におけるポーランドの理解と研究に、歴史的な役割を果た」したのに、疑いはありません。

#053  1986年8月2日、長崎平和公園の世界平和シンボルゾーンに、マリウシュ・クルパの彫刻「生命と平和との花」が建立されました。同地区には、1980年から2006年にかけて、世界各国から贈られた平和を象徴する15個のモニュメントが配置されました。
建てられた順に列挙すると、ポルトガル、チェコスロバキア社会主義共和国、ブルガリア人民共和国、ドイツ民主共和国、オランダ、ソ連、中国、ポーランド人民共和国、イタリア、キューバ、ブラジル、トルコ、セントポール(米国ミネソタ州)、サンイシドロ(アルゼンチン、ブエノスアイレス州)、ニュージーランドとなります。当時のポーランドを含め、社会主義国からの寄贈が約半数。
ポーランドの記念碑の作者マリウシュ・クルパは、1947年に生まれ、クラクフ美術大学で学びました。現在、グダンスク美術大学教授を務めています。
「生命と平和との花」像の高さは2メートル。台座には、3枚のプレートが掲げられています。
上中央――「寄贈国 ポーランド人民共和国」。
下左――(ポーランド語で)「不死鳥が灰から蘇るように、石から花が育つように、人類は己れの存在を確かなものとするだろう――地球上に平和の時が訪れるときに/ポーランド国民から長崎の住民への贈り物/1988年」
下右――(日本語で)「この像は、ポーランド人民共和国から長崎市が計画している『世界平和シンボルゾーン』建設の主旨に賛同し寄託された『生命と平和との花』です。/特に生命の再生・力強い躍動を象徴しており、人類が平和な世界で繁栄してほしいという願いを表現しています。/1986年8月
現在、グダンスク市のシェロカ通りと精霊通りの間に、この銅像のコピーが立っています。
なお長崎の浦上天主堂近くには、1981年2月に同地を訪問したヨハネ・パウロ二世を記念する像も建てられています。
参考資料:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%85%AC%E5%9C%92
http://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3030000/3030100/p005185.html
http://www.bonheur.ne.jp/k3/po-.html
https://pl.wikipedia.org/wiki/Mariusz_Kulpa
https://pl.wikipedia.org/wiki/Kwiat_%C5%BCycia_i_pokoju_w_Gda%C5%84sku

#054  英文学者・評論家・小説家の加藤朝鳥(1886-1938)〔本名:信正〕が、1920年代半ばから病に倒れるまでの10年間に達成した、ポーランド文学紹介に関する業績は巨大です。1936年11月1日付で、ポーランド文学アカデミーより黄金月桂樹勲章を受け、1937年9月にはポーランド文学アカデミー会員に推挙されました。
加藤の最大の訳業は、「若きポーランド」のレイモント『農民』全4巻(原著刊行1904-1909;翻訳刊行1925-26)、ジェロムスキ『灰』全2巻(1902-1904; 1931)という2編の大河小説です。それに続くはずだったのが、ロマン主義文学のクラシンスキ『非神曲』、ミツキェヴィッチ『コンラット・ヴァレンロット』『パン・タデウシュ』の翻訳ですが、いずれも未完に終わっています。
『灰』は、『祖国(恋)』(566頁)『萌え出づるもの(祖国続篇)』(552頁)という2冊本として、1931年の7月5日と11月5日に、東京堂から出版されました。価格はそれぞれ2円。
上巻には、本文の前にゾフィア・ストルィイェンスカ(1891-1976)の原画を基にしたカラー挿絵、アントニ・ヤジジェフスキ駐日ポーランド共和国代理公使の「序」、ジェロムスキの肖像写真、「訳者から」が収録されています。文中には、ストルィイェンスカによる挿絵(白黒版)12枚が収録されています。また、巻末には、ヤジジェフスキ代理公使の「序」英訳が載っています。
下巻には、本文の前に挿絵14枚(カラー版1枚+白黒版13枚)と加藤朝鳥による「解題」(上巻梗概)、本文の後に「『祖国』に対する諸名家推賞の辞並び批評(五十音順)」が収録されています。筆者は、画家の有島生馬(1882-1974)、詩人・小説家の佐藤春夫(1892-1964)、詩人・小説家の島崎藤村(1872-1943)、教育家・農政学者の新渡戸稲造(1862-1933)、小説家の吉田弦二郎(1886-1956)、小説家の宇野浩二(1891-1961)という錚々たる顔ぶれです。
以下は、上巻の序文の一部です。
アントニ・ヤジジェフスキ「西洋心と東洋心との間には種々の差別があり、記述文学の表現様式に於いても隔たりを有するのであるが、しかも文学は互に共通の目的を持って居る。即ち人類の最高理想を顕現すると同時に、祖国愛を発揚し、祖国の伝統を保持するにあるのである。」
加藤朝鳥「少年時代の頃であつたが、僕の郷里である伯耆(ほうき)の片田舎に波蘭産の大きな馬が来たことがある。之は郷里にある畜産家が種馬として、ポーランド産の馬を購つて頻りに自慢して見せたことがあるが、地産の駄馬に比較すると倍も体格の大きい堂々たるもので、当時の少年の僕の眼には畏敬の念さへ起させた程であつた。/その後何十年を経て最近波蘭歴史を読むに及び、はからずも武士の花と云はれた同国竜騎兵が十七世紀の土耳古侵入に対して花々しく戦つた事績に興味を感ずると同時に、その挿絵から察して、波蘭人の勇敢に敬意を表すると同時に、その馬の偉大さにも感服してしまつた。武士道の精神に於いて日本とポーランドとは酷似して居る」
加藤朝鳥の文章は、今から百年以上前の日本の農村の少年が、馬をきっかけにポーランドに興味を抱くようになった実例を物語るものとして、注目に値します。

#055  1926年9月5-11日に、ポーランド軍大佐ボレスワフ・オルリンスキ(1899-1992)が東京に滞在しました。彼は、東京まで飛行機で飛んだ最初のヨーロッパ人です。メカニックのレオナルド・クビャク軍曹とともにワルシャワ・東京間10,300kmを〔ブレゲー〕で往復しました。復路の途上、左の下の主翼を損傷しましたが、反対側の翼を短く切ることでバランスを取り、残り6,680kmを飛びきって帰還したそうです。オイルを損失した結果、エンジンも激しく消耗していました。日本人は、二人の来訪を心より歓迎しました。
 ポーランド共和国駐在武官兼代理公使(1925-1928)のヴァツワフ・イェンジェイェヴィチ(1893-1993)は、次のように回想しています――「帝国ホテルに飛行士たちの客室が予約され、宴会場にはポーランド語で『ポーランド人飛行家歓迎』と書かれていました。(……)日本人は多彩な宴会行事を用意し、私はときに軍服で、ときに私服で、ときに公使として、ときに駐在武官として、出席しました。(……)晩には、公式の歓迎会と芸者を呼んでの私的な宴席が設けられました。私は、この出来事の関係者一同のために40人分の大晩餐会を開きました。」
この偉業によってオルリンスキは、勲六等旭日章を授けられ、帰国後大尉に昇進しました。

#056   アンジェイ・ワイダ監督の傑作映画『灰とダイヤモンド』(1958)は、1959年7月6日に日本公開されました。
この映画が日本で公開されたとき、肯定的に評価する知識人のなかに、主人公マチェイ・ヘウミツキを体制に押しつぶされた挫折者としてとらえる人と、テロリストとして使命を貫徹した男としてとらえる人が現れました。前者は、映画監督の大島渚(1932-2013)、小説家の井上光晴(1926-1992)といった左翼系の人々。
万能の文学者三島由紀夫(1925-1970)は後者の代表です。当時彼は「週刊明星」にエッセイ「不道徳教育講座」を連載中でした。8月2日号に「暗殺について」を発表し、その冒頭に、「最近での一等良い映画だつたといへる『灰とダイヤモンド』では、第二次大戦後のポーランドの暗殺者の動きがとらへられてゐました」と記しました。
参考文献
三島由紀夫「暗殺について」、『決定版三島由紀夫全集 第三十一巻』新潮社、2003年。初出は「週刊明星」1959年8月2日号(第30号)

#057  2019年9月2日、東京・武蔵野美術大学美術館で「スタシス・エイドリゲヴィチウス イメージ――記憶の表象」が始まりました。同展は、11月9日まで開かれています。
武蔵野美術大学美術館・図書館の主催です。駐日ポーランド共和国大使館、ポーランド広報文化センターの特別協力、駐日リトアニア共和国大使館の後援により実現しました。
スタシス・エイドリゲヴィチウス(1949⁻ )は、リトアニア出身で40年近く前からポーランドで活動芸術家は、ポーランドでとても人気が高く、代表作は、ポスター、パステル画、蔵書票、挿絵、ドローイング、仮面など様々なジャンルに渡っています。
2019年7月29日には、ポーランドの「ジェチポスポリタ」紙、「子どもの感受性を持つ男、古希を祝う。私たちの国でとても人気のあるスタシス・エイドリゲヴィチウスは、70回目の誕生日を大規模な展示で祝うことにした……日本においてである」という長文の記事が掲載されました。以下は、その一部です。
「スタシスは、生涯を通じて旅をする人間、経験の重みが増しても子供のような感受性を失わない人間についての果てしのない物語を紡ぎ続けている。世界の狂気のすべてが、この虚構人物にメランコリックな痕跡を刻み、その目から世界発見への関心の火が消えることのない彼は、作者の分身でもある」
今回の展示では、特に、ドローイング、初期作品(版画、蔵書票、写真、挿絵)、スケッチブックに焦点があてられています。「ジェチポスポリタ」誌のインタビューに答えて、スタシスはドローイングについて、次のように述べています――「これは試験です。線は、あなたが名人であるかそうでないかを示します。絵画ではさらに色を重ねて、描きなおすこともできますが、ドローイングではもうなに一つ訂正することはできません」
その他、画家の生の言葉をお聴きになりたい方は、次のイベントにご参加ください。
1.9月17日13~14時 本展会場 
スタシス・エイドリゲヴィチウスと今井良朗(武蔵野美術大学名誉教授)のギャラリートーク
2.9月19日16時30分~18時 武蔵野美術大学第1講義室
スタシス・エイドリゲヴィチウスと寺山祐策(武蔵野美術大学教授)の講演会

#058  1955年8月9日に、戦後初めて、日本におけるポーランド劇映画の上映が始まりました。ヴァンダ・ヤクボフスカ(1907-1998)監督『アウシュヴィッツの女囚』(1948)です。独立映画センターが配給しました。
当時、監督名はワンダ・ヤクボウスカ、作品タイトル『アウシュウィツの女囚』と表記されていました。1988年3月に同監督の『招待』(1985)とともに再公開された際、それぞれワンダ・ヤクボフスカ、『アウシュビッツの女囚』に変えられました。なお、原題は、「最終段階」の意味です。
日本封切り日は、あたかも長崎に原爆が落とされてからちょうど10年目でした。公開当時のプログラムには、「広島・長崎十周年記念を前に、この映画が、戦後初めてのポーランド映画として、日本国民の前にもたらされるのは、まことに意味が深いといわねばならない」と書かれています。
また、同じくプログラムに掲載された映画評論家の原安佑のエッセイ「このフィルムは真実である――人間追及の精神――」には、次のような、いかにも冷戦時代に特徴的な記述が見出されます――「東ヨーロッパ、特にポーランドという新しく誕生した民主主義国では、必然的にこの国の映画にもヨーロッパ伝統芸術に加えておおきな飛躍があるはずである。戦前、戦後のポーランド映画は、その片鱗すらつかめなかったけれども、この映画『アウシュウィツの女囚』は予想し期待した映画であった。真実の追及を、レアリズムの精神をもってつらぬいている問題作である」

#059  1974年9月14日、東京で、「ポーランド人民共和国解放30周年記念 ポーランドの伝統と栄光展」が開幕しました。ポーランド人民共和国文化省、クラクフ国立博物館、朝日新聞社が主催し、外務省、文化省、在日ポーランド大使館が後援しました。
会期と会場は、以下の通りです。
9月14~24日 東京・伊勢丹
10月10~14日 宇都宮・上野百貨店
11月1~6日 名古屋・名鉄百貨店
11月8~20日 大阪・そごう百貨店
主催者からの「ごあいさつ」を読んでみましょう――「今年はポーランド人民共和国が誕生して30年を迎えます。これを機会に、ポーランドの伝統と栄光をたたえ、それを広く紹介する展覧会を開きます。(……)このたびの展覧会は、日本に初めて紹介される本格的なポーランド文化展で、ワルシャワ、クラクフ両都市の国立博物館に秘蔵されている珠玉の工芸品をはじめ、近代から現代にいたる代表的な絵画も数多く出品されます」
絵画に限っても、ピョトル・ミハウォフスキ、ヤン・マテイコ、マクシミリアン・ギェリムスキ、ユリウシュ・コサック、スタニスワフ・ヴィトキェヴィチ(父)、ユゼフ・ヘウモンスキ、レオン・ヴィチュウコフスキ、オルガ・ポズナンスカ、ユゼフ・メホッフェル、タデウシュ・カントル、イェジ・ノヴォシェルスキ、ボレスワフ・ツィビス、ロマン・オパウカなどの作品が展示されました。スタニスワフ・スタトレルが描いた、名高い「ショパンの肖像」も「来日」しました。
図録には、安達健二(文化庁長官)、ユゼフ・テイフマ(文化芸術大臣)、ズジスワフ・ジグルスキ(クラクフ国立博物館キュレーター)、津島一夫(朝日新聞東京本社外報部)が寄稿しています。
テイフマの「メッセージ」によると、日本において、「今回の展覧会はポーランドの民族遺産の中からさまざまな分野の重要な作品を、紹介しようという初の試み」(1970年に東京と金沢でポーランドの武器の黄金時代の展覧会が開かれていました)でした。
作品の選択を行ったのは、ワルシャワとクラクフの国立博物館です。
参考資料:
朝日新聞東京本社企画部(編集・発行)『ポーランド人民共和国解放30周年記念 ポーランドの伝統と栄光展』、1974年 求龍堂

#060  10年以上前から、日本のラジオリスナーの皆さんはポーランドから様々な面白いエピソードを聞くことができます。発信者は、約50年ポーランドに住む岡崎恒夫さんです。岡崎さんは長年、ポーランドの日本学科で教鞭をとり、ポーランドにおける長年の日本語教育に大きく貢献されたことに対して瑞宝章、外務大臣表彰を受けました。ポーランドのファンであり、日本の方々にこの国のことを広めてくださっている人物です。
ラジオ番組とは、NHKラジオの「ラジオ深夜便」で、世界各国に定住する日本の方々と電話をつないでレポートしてもらう企画があり、そのうちの一つがポーランドなのです。レポートの内容は生活のことや文化、慣習のことなどがあります。2019年8月には、岡崎さんのレポートの原稿をまとめた「ワルシャワ便り」という本が発売されました。

#061  1939年9月1日にナチス・ドイツが、ポーランド侵攻を開始しました。駐日波蘭特命全権大使のタデウシュ・ロメルは、9月6日、「祖国波蘭を憶ふ」という文章を認め、同文は、月刊誌「改造」10月号に掲載されました。
その末尾で、ロメルは次のように述べています――「波蘭は既に多くを失つたが、更にまた多くを失ふことあるやもはかり知れない。然し、親愛なる日本国民諸君よ、諸君も予測し且つ諒解してゐるであらうやうに、仮令波蘭から全てが奪はれることがあつたとしても、唯一つ決して失はれざるものが波蘭には必ずあるといふことを銘記して戴きたい。即ち祖国波蘭にとりて最も貴重なるものは国家的名誉である。たとえこの試練が最悪なる結果に了るとも最後の復活に対する最大限の保障――が確実に存在するであらうことをである。」
参考文献:
「改造」1939年10月号(第21巻第10号)

#062  ヤン・コヴァレフスキ(1892年10月24日~1965年10月31日)――ポーランド軍歩兵中佐。数学者、言語学者、暗号学者。ポーランド・ボルシェビキ戦争中に、ソ連の暗号を解読しました。1909-1913年、リエージュ大学に学び、化学工学科を卒業しました。ドイツ語、フランス語、ロシア語など数か国語に通じていました。1920年のワルシャワ防衛戦において、コヴァレフスキが組織したポーランド無線諜報局が提供した情報は、ユゼフ・ピウスツキの戦略的決断を最終的に決定するような影響を与え、その結果として、ポーランド軍はワルシャワに総攻撃をかける赤軍に対して華々しい勝利を収めました。彼は1923年に東京に派遣され、3か月にわたり、日本の諜報部将校に暗号学を指導し、彼らにソ連暗号の解読方法を伝達しました。それが、日本人が独自の研究を行うための確固たる基盤となったのです。その功績で、旭日賞を授与されました。2019年、日本におけるポーランド史の広報活動に対して、ピースおおさか(公益財団法人大阪国際平和センター)の 駒井詩子博士に、第1回ヤン・コヴァレフスキ中佐記念賞が授けられました。

#063  1980年9月6日に、東京・岩波ホールで、アンジェイ・ワイダ監督の傑作『大理石の男』(1976)の上映が始まりました。1977年2月25日にポーランドで公開されてから、3年半が経過していました。日本紹介が実現したのは、1978年のカンヌ映画祭「驚きのプログラム」でこの作品に出合った、岩波ホール総支配人・高野悦子(1929-2013)の功績です。
「ポーランドの政治を内部告発したワイダ監督の勇気と、芸術的にもすぐれたこの作品に感嘆した」高野は、岩波ホールでの『大理石の男』上映に向けて活動を開始し、1980年9月6日の封切りが決まります。その2か月前の7月1日から2週間、ワイダ監督はクリスティナ夫人を伴って、日本を訪れています。
ワイダは、『大理石の男』の観客にあてて、次のメッセージを認めています――「岩波ホールの上映リストをみますと、いろいろな国の傑作が並んでいます。しかし、ポーランド映画はこの『大理石の男』が最初ということです。(……)。『大理石の男』は私が20年間、映画を撮りつづけた中で、『灰とダイヤモンド』と並んでもっとも好きな作品です。12年間企画をあたため、ようやく完成した作品でしたが、若い観客に支持され、わが国では記録的な興行成績をあげました。そして諸外国にも輸出され、各地で成功を収めることができました。日本においてもみなさまにご支持いただければたいへん嬉しく思う次第です」
1980年8月14日にポーランドのグダンスクのレーニン造船所で労働者1万4千人によるストが起こります。同月末日、政府代表と連合スト委員会が合意書に調印し、これが『大理石の男』の続編『鉄の男』のクライマックスシーンになります。
「ポーランドの八月」に仰天したのは、日本で『大理石の男』の上映準備を進めていた配給・上映会社関係者、そして試写会でこの作品を観ていた批評家でした。
高野悦子がフィルムライブラリー協議会専務理事・川喜多かしこ(1908-93)と連名で記した文章には次のように書かれています――「この作品の上映準備が全部整ったところへ突如ポーランドのグダニスクにおけるストライキが伝えられました。これは『大理石の男』の主人公ビルクートが死んだと暗示されているレーニン造船所を中心としたもので、映画とのあまりの類似は驚くばかりです。それにしても私どもは、真の芸術家が歴史を予見し得ることを発見し、今さらながら感動の念を覚えずにはおられません」
あまりにもタイムリーな(むしろ、本国での公開からあまりにもタイミングよく遅れた)日本公開でした。上映は大成功を収めます。以後、ワイダ作品は、遺作になった『残像』(2016)まで、ごく少数の例外を除いて、岩波ホールで初公開されるのが習慣になりました。

#064  2019年10月10日、スウェーデン・アカデミーは、2018・2019年ノーベル文学賞受賞者を発表しました。2018年受賞者はポーランドの作家オルガ・トカルチュク(1962- )、2019年受賞者はオーストリアのペーター・ハントケ(1942- )です。
ポーランド文学者のノーベル文学賞受賞は、これで5人目です。
1905年:ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846-1916)
1924年:ヴワディスワフ・レイモント(1867-1925)
1980年:チェスワフ・ミウォシュ(1911-2004)
1996年:ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)
この他、ポーランドで生まれ、ポーランドで文学活動を始め、主要な作品を米国で発表したイーディシュ語作家アイザック・バシェヴィス・シンガー(1904-1991)も、1978年に栄誉に輝いています。
トカルチュクの選考理由は、「森羅万象への情熱を武器に、限界を乗り越えていこうとする生き様を物語る想像力に対して」と発表されました。
トカルチュクの作品には、次の日本語訳があります。
「番号」(つかだみちこやく) 『ポケットの中の東欧文学――ルネッサンスから現代まで』所収(成文社 2006年)
『昼の家、夜の家』(小椋彩訳)(白水社 2010年)
『逃亡派』(小椋彩訳)(白水社 2014年)
「文学にあらわれた《中欧》という名の幽霊(ファントム) : 中欧文学は存在するか(抄録)」(講演)(久山 宏一訳) 「早稲田文学」第10次(6) 2013年
オルガ・トカルチュクは2013年に日本を初訪問し、3月1日から3月3日にかけて、東京と京都において読者・研究者とのイベントに参加したことがあります。3月1日に、立教大学で講演会「文学にあらわれた《中欧》という名の幽霊(ファントム) 中欧文学は存在するか」が開かれた。3月2日は東京大学で「中欧文学の夕べ」というタイトルのイベントが開催され、ミハル・アイヴァス(チェコ)、山崎佳代子(セルビア/日本)も参加した。3月3日は、同志社大学で立教大学と同題の講演と朗読会が催されました。

#065  1964年10月10~24日に開催された東京オリンピックで、ポーランド選手団は、金メダル7個、銀メダル6個、銅メダル10個の計23個のメダルを獲得しました。
金メダルに限れば、ミュンヘン(1972)、モントリオール(1976)と並ぶ、ポーランド・チーム最高記録です。
以下は、東京五輪でのポーランド金メダリストです。
男子選手:
1.ヴァルデマル・バナシャノフスキ 重量挙げ
2.エゴン・フランケ フェンシング
3.ユゼフ・グルジェン ボクシング
4.マリアン・カスプシク ボクシング
5.イェジ・クレイ ボクシング
6.ユゼフ・シュミト 三段跳び
女子選手:
7.テレサ・チェプウィ、ハリナ・グレツカ、イレナ・キルシェンシュタイン、エヴァ・クウォブコフスカ 4×100メートルリレー

#066  ポーランドで日本の国技・相撲の普及が始まったのは、1997年です。やがてポーランド・レスリング協会に相撲部門ができ、その後、ポーランド相撲連盟が結成されました。
2000年10月14-15日、クラクフで相撲ヨーロッパ選手権が催されました。ポーランド選手団は、エディタ・ヴィトコフスカ(80キロ級女子)と男子団体が金メダルを獲得しました。
その後、2014年にはワルシャワで、2016年には、クロトシンで相撲ヨーロッパ選手権が開かれました。
なお、現在、大相撲には、ポーランド人の血を引く露草(ろくさ)和樹(かずき)(1994⁻ )がいます。2016年9月に初土俵を踏み、最高位は幕下五十一枚目、現在は、三段目三十七枚目です。頑張れ!

#067  内田光子は、静岡県熱海市生まれのピアニスト、指揮者です。モーツァルト、シューベルト、シューマン、ベートーヴェンなどの古典的作曲家から20世紀の作曲家まで、幅広いレパートリーを誇ります。
彼女は、ワルシャワで5年に一度開かれるフリデリク・ショパン記念国際ピアノコンクールで、日本人歴代最高の第2位に輝いています。1970年10月25日に終了した、第8回コンクールです。第1位は ギャリック・オールソン(アメリカ)、第3位は ピョトル・パレチニ(ポーランド)でした。

#068  日本とポーランドの文化に関心を持つ人々の間で、人気小説家の村上春樹(1949⁻ )が、JALグループ機内誌〔スカイワード〕に寄稿した、ポーランド旅行エッセイ「雨のクラクフ」が話題になっています。
以下は、その一節です――「帰り際にポーランドの人に『村上さん、ポーランドで目にしたものの中で、何がいちばん印象深かったですか?』と尋ねられた。もちろんいろんなものが印象深かったわけだが(僕がポーランドを訪れるのはこれが初めてだったから)、日本に戻ってきて、ぼくが今いちばんくっきり思い出せるのは、街でも名所旧跡でもなく、なんといっても雨に濡れた緑だ。それはどこまでも瑞々しく、鮮やかな緑だった。」
実はこの後に、村上文学のファンにとっては読み落とすことのできない重要な「告白」がなされているのですが、それについては、みなさまのお楽しみにとして、あえて明かさないことにします。エッセイの全文は、紙媒体またはウェブ上でお読みください。

#069  1957年9月、東京と京都で、「東西文学の相互影響」をテーマに、国際ペンクラブ大会が催されました。5人のポーランド文学者が来日しました。ポーランド人民共和国から、アントニ・スウォニムスキ(1895-1976)、ミハウ・ルシネク(1904⁻2001)、カジミェシュ・クマニェツキ(1905⁻1977)。また「亡命文学」セクションには、米国在住のカジミェシュ・ヴェジンスキ(1894-1964)
とアレクサンデル・ヤンタ=ポウチンスキ(1908⁻1974)が参加しました。
最初の3人の文学者と日本の間に、格別の結びつきがあった痕跡は見出せません。しかし、1930年代に日本に住んでいたことのあるヤンタ=ポウチンスキにとっては、これは20年ぶりの日本滞在でした。またヴェジンスキの名は、3年前にその著書『ショパン』が日本で翻訳刊行されていましたから、音楽愛好家にとって未知の名前ではありませんでした。
京都では、ポーランド文学者たちと二人のポーランド研究者(浅井金蔵〔1918⁻1968〕と梅田良忠〔1900⁻1961〕)の出会いが待っていました。梅田はヴィェジンスキ、ヤンタ=ポウチンスキと戦前のワルシャワで知己を得ていました。1960年に『世界名詩集大成』第15巻が刊行され、その中には、スウォニムスキとヴェジンスキの詩が浅井と梅田の翻訳で収録されました。
日本での経験は、ポーランドの文学者の作品に痕跡を残しているでしょうか? 私たちは、日本での印象から生まれた珠玉の作品を一つ知っています。 #JP100PL
カジミェシュ・ヴェジンスキ
日本についての詩
あなたは日本がお好きではないのですか?
そんなことが、あってもいい?
すべての人は
日本に住むべきです
すべての大陸は
日本の隣にあるべきです
すべての庭師は
日本人と同じように土に彫刻を刻むべきです
すべての女性は
日本婦人のような肌を持つべきです
すべての書物は
日本の紙と活字で書かれた詩であり
すべてのフィレンツェは
京都に似ているべきです
すべての演劇は能演劇に似て
バイオリンとしての演劇、火山としての演劇
非現実で不可視の演劇であるべきです
それらが上演されるのは
証明するためなのです――
存在しない
ものが
そこにあるということを

#070  2019年10月4日、全国の映画館で、映画『蜜蜂と遠雷』が封切られました。
原作は、恩田陸(1964- )が、2017年に直木賞&本屋大賞をW受賞した話題の長篇小説(玄冬社文庫刊)。第6回芳ヶ江国際ピアノコンクール(浜松国際ピアノコンクールがモデル)に出場する4人のピアニスト(マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、高島明石、風間塵、栄伝亜夜)を中心にした物語です。
映画には計3人のポーランドに関連するスタッフ、キャストが、重要な役割で参加しています。
まずは、監督の石川慶(1977- )。愛知県豊橋市出身で、東北大学物理学科卒業後、ポーランド国立映画大学(ウッチ市)で演出を学びました。長編映画監督デビュー作となる『愚行録』(2017)で、第73回ヴェネチア映画祭オリゾンティ・コンペティションに選出、新藤兼人賞銀賞ほか、日本プロフェッショナル大賞、ヨコハマ映画祭で新人監督賞を受賞しています。
撮影のピョトル・ニェムィスキ(1978- )。映画大学時代の石川の同級生。1999年に撮影監督としてデビューして以来、多くの作品に携わっています。代表作は、クシシュトフ・ザヌッシ監督『エーテル』(2018)。
もう一人、ピアニスト・審査員のナサニエル・シルヴァーバーグで、ポーランド出身の有名俳優アンジェイ・ヒラ(1964- )が出演しています。デビューは、1988年。代表作は、アンジェイ・ワイダ監督『カティンの森』(2007)、イェジ・スコリモフスキ監督『イレブン・ミニッツ』(2015)でしょうか。
小説を創造的に映画化した、とても作家性の強い映画が完成しました。ポーランド文化を愛するみなさまも、最新の傑作映画を観に、ぜひ劇場に足をお運びください!
なお同作品は、2019年10月16日、第35回ワルシャワ国際映画祭で上映されました。ポーランド語タイトルは、『宇宙の音を聴け』です。

#071  高松宮殿下記念世界文化賞は、日本美術協会によって1988年に創設されました。
絵画、彫刻、建築、音楽、演劇・映像の各分野で、世界的に顕著な業績をあげた芸術家に毎年授与されます。「芸術のノーベル賞」と通称されることもあります。ポーランドからは、これまでに、1996年アンジェイ・ワイダ(1926-2016)(演劇・映像部門)、2004年クシシュトフ・ペンデレツキ(1933⁻ )(音楽部門)が受賞しています。
授与式は10月後半に、東京・元赤坂の明治記念館で行われます。
アンジェイ・ワイダにとっては、授与式への出席が最後の日本訪問となりました。

#072  1952年に設立された国立近代美術館は、当初から映画関連事業を行っていました。1970年に、美術館の付属機関として、東京国立近代美術館フィルムセンターが開館します。2018年には、国立映画アーカイブと改称されました。
現国立映画アーカイブでは、これまでに5回、大規模なポーランド映画特集上映を催しています。
1972年11月13日~1973年1月17日:ポーランド映画の回顧(長篇23本上映)
1976年9月1日~9月14日:70年代ポーランド映画の展望(長篇7本短篇7本上映)
1990年9月15日~10月28日:「ポーランド派」の映画(長篇21本上映)
2005年9月13日~9月25日:ポーランド映画、昨日と今日(長篇10本上映)
2007年9月18日~9月30日:日本・ポーランド国交回復50周年記念 ポーランド短篇映画選 ウッチ映画大学の軌跡(長篇4本短篇40本上映)
2005年10月28日~12月26日には、7階展示ホールで、「ポーランドの映画ポスター――東京国立近代美術館フィルムセンター・コレクションより――」が開かれました。今年も、12月13日、京都国立近代美術館との共催で、「日本・ポーランド国立樹立100周年記念 ポーランドの映画ポスター」が催されます(2020年3月8日まで)。乞うご期待!

#073  日本・ポーランド文化交流史上、最も重要な出来事の一つ。日本美術技術センター(現博物館)〔マンガ〕建設の発案者は、映画監督アンジェイ・ワイダです。彼は、1987年に稲盛財団から京都賞を受賞した後、4500万円の副賞全額を、不足分の経費を集めることを目的にした京都クラクフ基金の設立にあてました。このようなセンターを他ならぬクラクフに建設しようという決断の根拠になったのは、フェリクス・ヤシェンスキが収集し、クラクフ国立博物館の所蔵品になっていた素晴らしいコレクションを見学者のために展示する可能性がなかったことなどでした。センターには約1万点(そのうち、4600点は木版画浮世絵)が収容される予定でした。施設の建設予定地は、クラクフ市当局が寄贈しました。
定礎式は1993年3月28日に催されました。建築家・磯崎新は報酬を受け取ることなしにセンターの設計図を作り上げました。建築費用は7億円と試算されています。
センターの開所式は、高円宮両殿下ご臨席の下、1994年11月30日に行われました。これは、日本の皇族にとって初めてのポーランドご訪問でした。その数日前、高円宮殿下はレフ・ワレサ大統領、上下院議長と面談されました。ワルシャワのフリデリク・ショパン記念音楽アカデミーもご訪問になり、ヤマハ製のグランドピアノ15台を寄贈されました。
〔マンガ〕センター開所式には、ワルシャワ大統領も出席し、次のように述べました――「センター建設は、私たち両国の友情と協力の証しです。ポーランドは日本との諸方面での協力を重視しています。精神的な親近性と両国文化への共通の関心には、人的・経済的交流の発展への道を開く力があります。それを鑑み、私は数日後、日本公式訪問の旅に出発します。」

#074  1982年11月1日、歌手の加藤登紀子が、アルバム『愛はすべてを赦す』をリリースしました。プロデュース、編曲、ピアノ伴奏を担当したのは、後の世界的作曲家・坂本龍一。加藤は、ハンカ・オルドンの『愛はすべてを赦す』、『今日は帰れない~パルチザンの唄』、ブレヒト・ソングなど1930年代のポーランドとドイツの流行歌を日本語で歌いました。

#075  1966年10月17日、世界の音楽学者がその行方を捜していたショパンのマズルカハ長調作品33-3の原譜(4頁)と未発表の手紙が、東京で発見されました。この貴重な資料は、前田利為公爵の未亡人菊子の自宅に保存されていたものです。前田利為は陸軍大将を務め、菊子は夫の死後、評論家として活躍しました。
原譜は、利為が、1930年にベルリンで競売されたものを購入し、日本に持ち帰ったものと判明しました。この原譜のコピーをもってポーランドに飛んだ日本のショパン研究家によると、あちらでも「まさか日本にあったとは……」と驚かれたそうです。

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