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#076 1970-80年代にポーランドのPAX出版所は、日本の小説家・遠藤周作の小説5編のポーランド語訳を刊行しました――『海と毒薬』、『おばかさん』、『私が・棄てた・女』、『沈黙』、『侍』。日本のカトリック作家を高く評価していたPAX出版所は、彼をヴウォジミェシュ・ピェチシャク賞に選びました。授与式は、同賞25周年にあたる1976年12月12日に催されました。
1976年12月11日、遠藤周作・順子夫妻は、2週間のポーランド滞在のためにワルシャワに到着しました。土曜日で、夜大雪が降りました。朝、作家はホテルを出ると、近くにある聖十字架教会に向かいました。ミサ終了後ホテルに戻ると、夫人とともに、ヴウォジミェシュ・ピェチシャク賞授賞式に出席するため、教会のすぐ先にあるポーランド科学アカデミー本拠のあるスタシツ宮殿に向かいました。
遠藤夫妻のために、チェンストホヴァとジェラゾヴァ・ヴォラへの日帰り旅行が準備されました。首都に1種間滞在した後、クラクフに移動します。PAXが傭上した車での旅は6時間続きました。ホテルでは、クラクフ在住の作家が二人を待っており、彼は客人たちをヴァヴェル城、中央市場、織物会館に案内しました。クラクフに数日滞在していた間に、遠藤はその文学者の案内でオシフィェンチムを訪れました。遠藤夫妻がポーランドを発ったのは、1976年のクリスマス・イヴ直前です。
大作家は、エッセイ『アウシュヴィッツ収容所を見て』、短篇小説『ワルシャワの日本人』など、ポーランドに関連する文章を総計10数編著しています。
補足するならば、ポーランド通貨で支払われ、国外持ち出しが禁じられていたために、作家がワルシャワ大学日本学科に寄付を決めた、副賞を基に、最もすぐれた卒業論文に与えられる遠藤周作賞が設立されました。第1回受賞者に選ばれたのは、ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさんです。彼女は、2008⁻2012年に、駐日ポーランド共和国大使を務めました。

#077 1999年は、日本とポーランドの間に正式な国交が樹立されてから80周年、そして両国において不滅の人気を誇るショパンの没後150周年にあたりました。それを記念して「ショパン ポーランド・日本」展が開かれました。会期と場所は次の通りです: 1999年11月:東京, 12月:大阪, 2000年1月~2月:ワルシャワ, 3月:クラクフ.
関連企画として、東京で、ピアノリサイタル、ポーランド演劇上演、シンポジウム、ポーランド語スピーチコンテストが開かれました。日本語とポーランド語によるカタログ(248頁)も出版されました。

#078 ハリナ・チェルニ=ステファンスカは、1949年、第4回フリデリク・ショパン国際ピアノコンクールで第1位に選ばれた、ショパン演奏の名手です。1952の初来日以来、たびたび日本で公演を行いました。「マンネリを嫌う」性格から音楽大学の教授には向かなかった彼女が、教育活動に初めて本腰を入れたのは1993年、3か月間の東京芸術大学の客員教授の仕事でした。そして再び、1998年、東京芸術大学の要請で2年間教授を務めることになりました。2001年3月、東京芸術大学客員名誉教授の称号を授けられました。クラクフの自宅で逝去したのは、そのわずか3か月後のことです。
「日曜日は嫌い。皆がお休みでも、ピアニストはいつも練習という仕事をしなくてはいけない」が、天才ピアニストの口癖だったそうです。

#079 2005年、国立映画アーカイブで、「ポーランドの映画ポスター――東京国立近代美術館フィルムセンター・コレクションより――」が催されました。50点が展示されました。
それから14年、同展示室で再び、ポーランド映画ポスター展が開かれます。「日本・ポーランド国交樹立100周年記念 ポーランドの映画ポスター」です。会期は、2019年12月13日~2020年3月8日(その後、京都国立近代美術館に場所を移して、3月17日~5月10日に催されます)。前回の倍近い、96点の映画ポスターが紹介されます。
開会を記念して、2019年12月13日16時より、展示室ロビーで、ダグナ・キドン氏(ウッチ映画大学)の記念講演「考えるポスター:ポーランド映画とポスターのポーランド派」が開かれました。2020年3月7日には、岡田秀則氏(国立映画アーカイブ主任研究員)の展示品解説が予定されています。

#080 1938年末に公演のためにワルシャワを訪れた宝塚少女歌劇団のメンバーも、ポーランドの「ポンチキ」をお腹いっぱいになるまで食べた――このことを証明する文献が発見されました。以下に掲げる文章は、日本女性の食の好みが80年以上にわたって不変であることの雄弁な証明です。戦前の日本女性は、ポーランドまたは東京の「ポンチキヤ」を訪れる現代の日本女性と同じくらい、「ポーランドのポンチキに目がなかった」そうです。
「もう一つの些事を書き漏らすわけにはいきません。日本女性が最もおいしいと感じたのはポンチキでした。広報担当の無邪気な好奇心をお許しいただけるならば――あえてお知らせいたしますが……彼女たちはお腹一杯になるほどポンチキを食べました」――ギェヨトは、歌劇団のポーランド滞在についての記事「踊りと歌とともに」(1939年1月号「極東からの谺」)に書いています。

#081 2020年1月7日付読売新聞朝刊に、ノンフィクション作家・梯久美子さんのエッセイ「ピウスツキ 越境する魂」が掲載されました。サハリンを訪れた著者と現地に残されたポーランド社会との出会いを物語り、民族学者ブロニスワフ・ピウスツキの生涯と業績の概要とサハリン時代のブロニスワフの仕事が、紹介されています。
「地理的にも民族的に境界を越えて生きたブロニスワフを追いかけるうちに、私は彼を、越境することで魂が更新されるタイプの人だと思うようになった。その人生に引かれるのは、私自身が、さまざまな制約を超え、ここでないどこかに心が向かってしまう人間の一人であるせいかもしれない。」

#082 アンナ・ビェルキェヴィチは、ワルシャワの政治犯救済基金などで活動した社会活動家、ポーランド児童救済会(ウラジオストク)設立者・代表を務めました。同会は、日本側の援助を得て、ポーランドの子どもたち、シベリアの孤児たちの本国帰還事業を行いました。
出版活動の分野における彼女の最大の業績は、隔週誌「極東の叫び」の発行です。1921年~1922年まで、計10号刊行されました。同誌の発行部数は2~4千部、東京、京都、大阪、神戸、横浜で発売されました。それぞれの記事は、ポーランド語、日本語、英語の三か国語で掲載されていました。
発行の目的は、日本の世論にポーランド、ポーランド史、現代の情勢に関する情報を伝えること、ポーランド人の愛国心の涵養、そしてそれを通しての極東在留ポーランド人の民族意識の深化にありました。同誌には、ポーランド児童帰還事業の経過、児童の日本滞在に関するニュース、日本文化と現下の情勢に関する論説が載りました。

#083 松本雲舟は、明治~昭和期に活躍した編集者、翻訳家です。松本は、シェンキェヴィチ『何処に行くQuo vadis』に始まり、メジコフスキー作『神々の死』、『マホメット言行録(コーラン)』、シェンキェヴィッチ作『復活乃武士』(『ヴォウォディヨフスキ殿Pan Wołodyjowski』の抄訳)、ウォーレス『星をめあてに』(『ベン・ハー』)、バニヤン『天路歴程』などの翻訳を手がけています。宗教(特にキリスト教)とポーランドへの強い関心がうかがわれます。
松本訳『何処に行く』は、『クォ・ヴァディス』最初の日本語全訳でした。上巻が1907年12月、下巻が1908年3月に出版されました。
上巻「緒言」より――「『クォ、ヷデス』は既に数年前、故高山樗牛氏などに依て広く世に紹介せられぬ。現時に於ても尚最も広くわが読書界に読まれてをる外国小説の一ならんか。その翻訳を企てし向も二三ありしと聴きしが、いかなる故にや、世に出でずして止みぬ。吾力を図らず、この大作を訳出す。」
松本雲舟訳から20年を経た1924年、文芸評論家・小説家の木村毅(き)の新しい全訳が刊行されますが、これについては、すでに本コラムでご紹介いたしました。

#084 1935年に設立された直木三十五賞は、半年に一度、最も優れた大衆文学作品に与えられる、日本で最も権威のある文学賞です。2020年1月15日、同賞の第162回の受賞者・受賞作が発表されました。昨年8月に刊行された、川越宗一作『熱源』です。
物語の背景となる時代は、1881年から1945年の60年余に及び、主人公は樺太出身のアイヌであるヤヨマネクフ(山辺安之助)、副主人公として、ポーランド人民族学者ブロニスワフ・ピウスツキとポーランド人政治家ユゼフ・ピウスツキの兄弟などの歴史的人物が登場します。川越さんは、あるインタビューで、白老に立つブロニスワフ・ピウスツキ像を見たことから、この小説を着想したと述べています。
同作は、2020年1月21日、第17回本屋大賞にもノミネートされました。大賞の発表は4月7日です。

#085 本2020年1月20日、ポーランド共和国内閣総理大臣マテウシュ・モラヴィェツキ閣下の日本歓迎式典の折、東京外国語大学(TUFS)名誉教授関口時正氏に、ポーランド共和国功労勲章コマンドルスキ十字型章が授与されました。ポーランド共和国首相マテウシュ・モラヴィェツキ閣下ご臨席の下、ポーランド共和国大統領に代わり、駐日ポーランド共和国大使パヴェウ・ミレフスキ閣下が、勲章を伝達しました。
ポーランド共和国大統領アンジェイ・ドゥダ閣下によって与えられた勲章は、ポーランドの文化・文学・言語普及、さらにはそれを通してのポーランド・日本両国関係の発展のための職業的・社会的活動における、教授の格別のご功績が高く評価されたことの証です。


#086 1961年3月22日、ポーランド映画『壮烈303戦斗機隊』(フベルト・ドラペッラ監督)が日本で公開されました。第二次大戦開戦直後, 英国で結成されたポーランド航空隊の戦う姿を描いた作品です。
その後、ポーランドのパイロットに関する次のような作品が製作され、日本で紹介されています: イギリス映画:ガイ・ハミルトン監督『バトル・オブ・ブリテン』,イギリス・ポーランド合作映画:デヴィッド・ブレア監督『303 バトル・オブ・ブリテン』, ポーランド・イギリス合作映画:デニス・デリッチ監督『戦闘機中隊303――真実の物語』。こちらの作品は第二次世界大戦開戦後まもなくしてポーランド政府崩壊に伴い母国から脱出したポーランド人航空兵から編制された英国空軍の第303コシチュシコ戦闘機中隊を主人公にした映画です。バトル・オブ・ブリテンに参加した連合軍の66個の戦闘機中隊のうちで最高の撃墜記録を挙げたことで名を馳せ、第二次大戦の伝説的存在となりました。
第303戦闘機中隊を扱った記録文学としては、アルカディ・フィドレルの『第303戦闘機中隊』が有名です。バトル・オブ・ブリテンの真只中に執筆が始まり、完成後の1942年に英国、翌43年には占領下ポーランドでひそかに刊行されました。残念ながら、いまだ日本語に翻訳されていません。

#087  越谷オサムは2004年にデビューし、代表作は映画化もされた『陽だまりの彼女』など、青春小説を多数発表している人気作家です。2019年、新潮社から彼の短編集『四角い光の連なりが』が刊行されました。
5編の短編小説のうち2番目に収録された「タイガースはとっても強いんだ」は、ポーランドへの言及を多数含む点で、注目すべき作品です。主人公は、24歳の食品メーカー勤務の男性「私」(苗字は「浜野」)。物語の舞台は大阪。主人公の自己紹介を聞いてみましょう――「父親が自動車部品メーカーに勤めていて、その関係四歳から十二才の初夏までをポーランドで過ごした。幼年期から少年期という大事な時間を送ったのだから、ポーランドはおれの第二の故郷と言えるだろう。それどころか、関空に降り立った日からしばらくは、『帰国』というよりも『来日』に近い気分でいた。ワルシャワ郊外の自宅では日本語で会話をし、現地の日本人学校に通ってはいたものの、道行く人々は体の大きなポーランド人、バスやマーケットで話すのはポーランド語、テレビを点ければ映るのはポーランド語の放送で、口に入れるものの半分近くをライ麦パンやジャガイモ料理が占めるという生活を送ってきたおれにとっては、大阪の街はいちいちすべてが物珍しく新鮮だった。」
彼は、プロ野球チーム阪神タイガースの熱狂的なファンです。憎からず思っている「中井さん」と、甲子園球場で、阪神対横浜戦を観戦する約束をしています。その途中、北大阪旧電鉄の江坂駅で、ポーランド人夫婦が乗車してきます。その後、何が起きるか……結末はあえて伏せておくことにしましょう。面白い作品です。ご一読をお勧めいたします! 

#088  今年は、第18回ショパンコンクールに関連して、さまざまな行事が予定されています。ここでは、展示「ショパン――200年の肖像」をご紹介しましょう。神戸での展示は終了しましたが、現在は福岡で (3月まで)、続いて、東京 (4月~6月)と静岡 (8月~9月)で開催されます。 

#089

ポーランドで催される下記の三大国際音楽コンクールについて質問です。
A) フリデリク・ショパン記念国際ピアノコンクール(1927年創設)
B) ヘンリク・ヴェニャフスキ記念国際ヴァイオリンコンクール(1935年創設)
C) グジェゴシュ・フィテルベルク記念国際指揮者コンクール(1979年創設)
1.それぞれ、どこの都市で、何年に1回開かれるでしょうか。
2.それぞれのパトロンになっている音楽家について、ご存知ですか。
3.それぞれのコンクールで日本人の最高位は?何年に誰が?
4.次のコンクールは、何年に開かれますか。

答え:
1. A) 5年に1回(ワルシャワ)
B) 5年に1回(戦前はワルシャワ、戦後はポズナン)
C) 4年に1回(カトヴィツェ)
2. A) フリデリク・ショパン:ポーランドのピアニスト、作曲家
B) ヘンリク・ヴェニャフスキ:ポーランドのヴァイオリニスト、作曲家
C) グジェゴシュ・フィテルベルク:ポーランドのヴァイオリニスト、作曲家、指揮者
3. A) 1970年 第8回大会 第2位 内田光子
B) 1981年 第8回大会 第1位 漆原啓子
C) 1983年 第2回大会 第1位 今村能/1991年 第4回大会 第1位 末廣誠
4. A) 2020年 第18回 B) 2021年 第16回 C) 2022年 第11回

#090  今年はポーランドのピアニスト、作曲家、政治家のイグナツィ・ヤン・パデレフスキの誕生160周年を迎えます。その機会に合わせて、ポーランド広報文化センターでは「パデレフスキ・スーパースター」展の準備を進めています。
中村紘子が中心となって、2016年発足された「日本パデレフスキ協会」は、3月22日スタインウェイ&サンズ東京で「日本パデレフスキ協会 第3回コンサート例会」を企画しています。昨年11月の第11回パデレフスキ国際ピアノコンクールで第1位、中村紘子賞に輝いたフィリップ・リノフ(ロシア)が出演します。なお、第3位は、日本人の古海行子(ふるみやすこ)でした。

#091  イグナツィ・ヤン・パデレフスキは、第二次世界大戦前の日本でも、著名な存在でした。例えば、1920年に日本における音楽評論の草分け大田黒元雄のエッセイ集『影絵』には「パデレフスキイ」という章があります。その生涯と芸術を紹介した、日本最初の文章と推測されます。
大田黒は、1914年にロンドンで、パデレフスキの演奏会を聴いたそうです。そのときの印象を次のように認めています――「パデレフスキイの演奏は明確其のものだと云つて好い。そしてまた飽くまでも色彩に富んで居る。彼の指は洋琴から微風の囁きを作り出すと同時に雷鳴の凄まじさをも作り出す。而かも彼は其のいづれの場合にも骨を折つてゐるといふやうなところが微塵も無い。そして彼の作り出す音は皆生きて居る。」
『影絵』に続いて、次に注目すべき日本語文献は、ピアニストがまだ生きていた1940年に刊行された、2種類の自伝翻訳でしょう。原田光子訳『愛国の音楽者パデレフスキー自伝』、内山敏訳『パデレフスキ自伝』が刊行されたのです。なお、2016年には、湯浅玲子による新しい翻訳『パデレフスキ自伝:闘うピアニスト』が出版されました。
1951年には、1910年にパデレフスキが発表した有名な演説「ショパン」の日本語訳(井上堅曹訳)が、初めて活字になりました。 

#092  2019年の末、日本によるシベリア孤児救済を重要なモチーフとする、谷崎由依『遠の眠りの』が出版されました。
1920年代初めから終戦直後までの4半世紀を背景に、幼年時代から読書好きだった絵子が作家として成長していくさまを描いています。舞台は福井。物語も終盤に近付く1930年ごろ、絵子は、清太と知り合い、彼からシベリア孤児の物語を聞かされます。
「浦塩の波蘭人たちが頼ったのが、この日本という国だった。おりしもシベリア出兵がなされていた時期だ。日本は共産主義の拡大を恐れていたし、防共ということで、ソビエト新政府とは敵対していたから、それで助けてくれたのかもしれない。子どもたちは赤十字の助けで船に乗せられた。そうして敦賀の港へ着いた。この国で保護されて後、合衆国を経由して波国へ帰っていったんだ」
やがて絵子は、この物語を「物語の種」に、戯曲を書く……。
一読をお勧めいたします!
 

#093  2011年4月8日、フリデリク・ショパンのピアノ曲を集めたアルバム『日本がんばれ!』がリリースされました。国際ショパンピアノコンクール歴代のポーランド人入賞者7名(クリスティアン・ツィメルマン、ヤヌシュ・オレイニチャク、バルバラ・ヘッセ=ブコフスカ、アダム・ハナシェヴィチ、ピョトル・パレチヌィ、ラファウ・ブレハチ、エヴァ・ポブウォツカ)が、1970~2009年に残した録音です。
アルバムは、2011年3月11日に日本を襲った大地震で被災した子どもたちに、寄付されるという慈善目的で、悲劇から一ヵ月足らずの間に、作られました。
以下は、CDに付された趣意書の一部です――「みなさまのお手許とお心に、またとなく美しいアルバムをお届けいたします。素晴らしいポーランド人アーティストたちが、2011年3月11日に日本に甚大な被害をもたらした地震と津波に苦しむ同国の子どもたちを助けるために、フリデリク・ショパンの音楽を演奏しています。数分の間に人と物のすべて――近親、友達、家、本、おもちゃ――を失い、子ども時代の終わりを不意に告げられて孤独で恐怖を覚える子どもたちの悲劇は、他人の運命に敏感な人々の心を揺り動かしています。『日本の子どもたちに救いの手を』のスローガンに、ポーランドのアーティストたちは、即座に、自発的に、そして感動的に応えました。ピアニストたちは、共同アルバムのために、さまざまな時代に残された自らのフリデリク・ショパン音楽の録音を、自らに帰属する演奏利用権と報酬を放棄して、提供しました。演奏者たちには、それに対して、このうえなく美しい謝辞と、偉大な才能・偉大な心を讃える言葉が捧げられるべきです」。
アルバム『日本がんばれ』は、2011年4月後半から6週間にわたって、ポーランドCD売上ランキング第1位の地位を守りつづけました。
 

#094  1970年末に日本語に翻訳されたポーランドのミステリ作品は、次の通りです:イェジイ・エディゲイ作『顔に傷のある男』、『ペンション殺人事件』、スタニスワフ・レム作『捜査』、『枯草熱』(サンリオ)。それから約40年間、一作も翻訳されなかったのですが、現在、再びポーランド発のミステリ作品が流行っているようです。
2017~2019年に、ジグムント・ミウォシェフスキ『怒り』、『もつれ』、『一抹の真実』が刊行され、評判を呼びました。2020年2月11日に、レミギウシュ・ムルス作『あの日に消えたエヴァ』が出版されました。ミウォシェフスキ作品は英語からの重訳でしたが、ムルス作品はポーランド語からの直訳です。
1970年代の作品の大半を翻訳した深見弾は、『顔に傷のある男』のあとがきで、ポーランドのミステリの特長を、的確に指摘しています。――「ポーランドの犯罪小説が追究している問題は、“犯罪は間尺にあわない“ことを文学作品としての質の高さやモラルを保ちつつ読者に伝えることである。また残酷な殺人場面や暴行、拷問などを克明に描写して見せることは極力避けている。だがミステリーの本領ともいうべき、謎解きやトリックには最大限の工夫がこらされており、それはかなり高水準に達している」
ジャーナリスト出身のミウォシェフスキや法律家出身のムルスの「残酷な」作品を読むと、時代の変化を感じますが、「謎解きやトリック」の見事さは、いささかも変わっていません。一度、書店やネットでチェックしてみてください! 

#095 3月1日はフリデリク・ショパンの誕生日(諸説あり)。ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、若き日々をワルシャワで過ごした彼は、その創作の中で頻繁に祖国ポーランドの民族音楽のモチーフを用いました。フランスに移り住み、作家のジョルジュ・サンドとの感情のやり取りが彼の作品の与えた影響も少なくないでしょう。ショパンの生家は、現在では博物館になっており、日本からの訪問者も毎年多く訪れます。1年を通して、日本各所でショパンの音楽を聴く機会があり、また5年に1度、開催されるフリデリク・ショパン国際ピアノコンクールは2020年の大会で18回目を数え、参加応募者と観客共に、アジアからは日本の人々が最も多いようです。ポーランドの「心の英雄」を愛して下さり、ありがとうございます。
ところで、日本では「フレデリク」と表記されることの多いショパンの名前ですが、ポーランドでの出生名は「フリデリク(Fryderyk)」。もし宜しければ、ポーランド語の名前も覚えておいてください♪

#096 日本古典文学研究者の園山千里博士の専門は、平安宮廷文学における詩と散文です。立教大学文学部日本文学科、同大学大学院文学研究科日本文学専攻後期課程を修了し、10
数年前から、ポーランドで教鞭を執っています。現在、ヤギェロン大学日本学・中国学課程准教授を務めています。文学史に関する講義とセミナーを行い、日本内外の日本研究者との共同研究プロジェクトに参加しています。
昨年、ポーランド語での研究を総括する研究書『平安時代の宮廷文学における和歌の詩法と実態』(ヤギェロン大学出版社)から刊行しました。同書の裏表紙には、ミコワイ・メラノヴィチ教授の推薦の言葉が印刷されています――「本書に提示された日本の詩歌研究は、ポーランドで最初の新しい研究成果であり、最新の日本語文献が用いられているだけでなく、文学・言語学上の日本における結論と仮説とヨーロッパ的概念とが調和的に結びつけられている」

#097  2002年初め、クラクフの出版社から、アルバム『日本に魅せられて』が出版されました。
写真家のアダム・ブヤク、詩人のチェスワフ・ミウォシュ、ヴィスワヴァ・シンボルスカ、映画監督のアンジェイ・ワイダという、世界的名声を誇るポーランド人芸術家4名が集まってできた、111頁から成る美術作品のように美しい書物です。
ブヤクが撮影した現代日本の風景写真の間に、ミウォシュが翻訳した俳句、ワイダが日本で描いたスケッチが挟まり、裏表紙にシンボルスカが歌川広重の版画にインスパイアされて書いた詩「橋の上の人たち」が載っています。序文と俳句はポーランド語・英語・日本語の3か国語、写真キャプションと詩はポーランド語・日本語の2か国語です。
以下は、日本学者で元駐日ポーランド大使のヘンリク・リプシツが寄せた序文の一部ですーー「霊感と手の届かぬ理想の探求において、わが著者たち――写真の詩人、言葉の詩人、そしてつかの間、映画撮影のカメラをスケッチブックに持ち替えたスクリーンの詩人――が自らのまなざしを日本に向けたのはなぜなのか。日本における現実、芸術的に再現されたもの、また『通りからそのまま』じかに触れられるようなもの――これらのさまざまな領域を行き来しつつ、直感した『日本的なもの』の本質に近づこうと試みて、著者一人一人が独自の開花を見せています。日本が彼らにインスピレーションをふんだんに与えたように、この本のページを繰る私たちもまた、恩恵を受けているように感じるのです」
 

#098 米川和夫は、早稲田大学文学部ロシア文学科を卒業から7年後の1958年に、ポーランドに渡りました。1959年から1967年まで、ワルシャワ大学東洋学研究所日本学科講師を務めました。
米川は、アンジェイェフスキ、ゴンブロヴィチ、ムロジェクなど、20世紀作家を中心に、数多くのポーランド文学作品を翻訳しています。52歳でのあまりにも早すぎる死の後、1987年に、遺稿集『北の十字架――ポーランド詩集』が出版されました。
ここでは、同書から、日本と関連のある、マウゴジャータ・ヒラル作「ヒロシマからきたてんしたち」の一節をご紹介しましょう。翻訳者・米川の天才の一端を感じていただければ幸いです。
しろいくものこぶねに/うちのってしゅのかみはつぶやく(……)/なにもかもすっかりうまくいったのに/こうきめたほどよしにしよう/もうせかいのおわりなど/それなのにばかものどもが/おれのすがたににせてつくられたあのばかどもが/かみさま/そう きをたてられてはどくですよ/もうソラおとしなんですから/てんしたちがささやき/ヒロシマとナガサキのそらから/しろいこぶねをこぎつつ/はなれてゆく/しゅのかみをのせ

#099 須賀しのぶは、青少年を中心に数多くの愛読者を持つ、現代日本最大の人気作家の一人です。1995年のデビュー以来、総計130冊以上の単行本・文庫本を発表しています。代表作は、ドイツが舞台の『神の棘』、『革命前夜』、そして、ポーランドが主要な舞台の『また、桜の国で』でしょう。
作品は、本編7章(「平原の国へ」「柳と桜」「開戦」「抵抗者」「灰の壁」「バルカン・ルート」「革命のエチュード」)+終章から構成されています。時代背景は、本編(1938年9月~1944年9月)+終章(1953年)。舞台は、第6章(ブルガリア、トルコ)と終章(日本)以外は、ほぼすべてワルシャワです。
ヴィスワの奇跡、カティンの森、コルチャック先生、ワルシャワ・ゲットー蜂起、ワルシャワ蜂起といった、日本が直接関係しないポーランド戦間期史上の重要史実に加え、シベリア孤児、梅田良忠、織田寅之助、極東青年会、宝塚少女歌劇団のワルシャワ公演、杉原ビザといった、日本が関係する史実が言及されます。それだけではありません。作者は、主人公・棚倉慎をワルシャワ蜂起の目撃者にし、蜂起兵たちとともに下水道をさ迷わせています。
作者の須賀しのぶは膨大な資料を読み込んだうえで、自由に想像力を羽搏かせ、読みはじめると止まらない物語を作り上げました。『また、桜の国で』は、第156回直木賞候補作&第4回高校生直木賞受賞作になりました。

#100 ズビグニェフ・オシンスキ教授は、卓越した演劇学者、演劇史家でした。ワルシャワ大学、ワルシャワ演劇大学で教鞭を執り、スタルィ劇場(クラクフ)文芸部長、イェジ・グロトフスキ研究所(ヴロツワフ)所長を務めました。教授は、2008年に、『20世紀におけるポーランド演劇と東洋の交流』という、2巻本の研究書を発表しました。第一部は、アジアの国々とポーランドの演劇交流を網羅的に記録し、第二部には、「ポーランドにおける能演劇の受容」「1931年における歌舞伎団の訪問」「宝塚―1938年の訪問の文脈」「グロトフスキと実験演劇―東洋文化に対して」などの論考が含まれています。演劇におけるポーランド・日本文化交流に関する基本的文献です。
今回は、この書物を基に、5の問いをご用意いたしました。みなさんはこのうちいくつに、正しく答えられますか?
① 1902年に、日本の劇団が、ルヴフ(リヴィウ)、クラクフ、ウッチ、ワルシャワで、『芸者と侍』『袈裟』『将軍』を上演しました。団長の名前は?――川上音二郎と川上貞奴。
② 1904~1929年に、ルヴフ、クラクフ、ワルシャワ、ヴィルノ(ヴィリニュス)で、繰り返し上演された日本の演劇作品とその作者は?――初代竹田出雲作『寺子屋』。
③ 1923年に、ワルシャワのフィルハルモニアに出演した日本人ダンサーは誰?――石井漠と妻の石井小浪。
④ 1931年に、ワルシャワ、ポズナン、ウッチ、クラクフ、ルヴフで、歌舞伎公演を行ったのは?――筒井徳二郎。演目は『恋の夜桜』『影の力』『光秀』といった日本古典演劇、すべて日本語での上演でした。ポーランド公演は、国外22か国巡業の一部でした。
⑤ 1956年に、劇団民芸が上演したポーランド現代戯曲とその作者は?――レオン・クルチコフスキ作『ユリウシュとエセル』。

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