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#026   2017年6月10日、ポーランド・日本文化交流に多大の功績があった、映画監督・舞台演出家・画家のアンジェイ・ワイダ(1926⁻2016)の遺作になった映画『残像』の日本公開が始まりました。場所は、ワイダ監督の中後期の作品を集中的に紹介してきた、東京・岩波ホール。本国ポーランドでは、2017年3月3日に封切られていました。
スターリン時代に、体制に迎合しなかったために絵画と教授による表現の場と生活の術を奪われた、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893⁻1952)の最晩年を描いた伝記映画の傑作です。『残像』公開に合わせて、岩波ホールでは、ポーランドの映画史家タデウシュ・ルベルスキ教授と日本のポーランド文化研究者関口時正教授の講演会が開かれました。

 

#027  2019年6月15日、ワルシャワのスウゥジェフ文化会館(モコトゥフ地区)で、毎年恒例の「祭――日本文化とのピクニック」が開かれました。今年は、浜松市内で沖縄県の伝統芸能エイサーを踊る「創作太鼓どうしゅう,童衆希宝KIHOU」の小中学生ら8人が出演しました。ポーランドの首都のワルシャワと浜松市は姉妹都市協定を結んでおり、「ポーランド市民交流友の会」(影山美恵子会長)が草の根交流を続けています。一行は、ポーランド滞在中、浜松市長の親書をワルシャワ市長に届けました。
参考資料:
https://warsawnow.pl/matsuri-2019-piknik-z-kultura-japonska/
https://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-CK2019060402000014.html
http://polja.hypermart.net/

 

#028  ポーランド・ワルシャワ出身の女性棋士のカロリーナ・ステチェンスカ(カロリナ・スティチンスカ)さん(1991年6月17日生まれ)は、2008年に、ポーランド語に翻訳された『NARUTO -ナルト-』をきっかけに、将棋に興味を持ちました。2011年、国際将棋フェスティバル(フランス)に出場し、女性では最高成績の4位となりました。2012年、海外招待選手として出場した女流王座戦で、女流棋士に初めて勝利した外国籍のアマチュア女性選手となりました。
彼女が日本将棋連盟に所属する初の外国籍の正規女流棋士になったのは、2017年2月20日でした(2019年6月現在、正規女流棋士の総数は59名)。第44期女流名人戦で、女流2級に昇級したのです。同年4月1日には、1級に昇進しました。
なお、カロリナさんが好きな日本の言葉は「初心」、ポーランドの言葉は「Kto pyta, nie błądzi」(クト・ピタ・ニエ・ブォンジ、「質問をする人は、迷うことはない」)だそうです。ますますのご活躍を!
参考資料:
https://www.shogi.or.jp/player/lady/59.html
http://www.highflyers.nu/bs/karolinastyczynska/

 

#029  2002年6月20日、皇居石橋の間で、明仁・美智子天皇皇后両陛下(現上皇上皇后陛下)の2週間に及ぶ外国(チェコ、ポーランド、オーストリア、ハンガリー)ご訪問を前に、記者会見が開かれました。ポーランドには、同年7月9-13日に滞在されました。
天皇陛下は、4か国の文化の特徴について次のように話されました――「これらの国々には,厳しい状況下に過ごしている人々を表した作品や,失われた祖国に愛を込めて作った作品があります。これらの作品は,世界の人々に共有され,日本の人々にも親しまれていますが,これらの作品の歴史的背景を理解することは大切なことと思います。私もこの機会に,これらの国々の歴史への理解を深めていきたいと思っています。これらの国々と日本との間には,これまで様々な芸術・文化の分野で交流がありました。これを基にして,更に幅広い分野での交流を発達させ,これらの国の人々と日本人との間にしっかりした信頼関係が育っていくことを願っています。」
皇后陛下は、シェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』、ショパン音楽など、ポーランド文化との出会いの思い出を語られました。
参考資料:
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gaikoku/gaikoku-h14-easterneurope.html
http://www.kunaicho.go.jp/e-okotoba/01/press/gaikoku-h14-easterneurope.html

 

#030  昨日から秋篠宮ご夫妻のポーランド公式訪問が始まっています。2019年6月21日、秋篠宮ご夫妻の外国(ポーランドとフィンランド)訪問を前に、記者会見が開かれました。
秋篠宮殿下は、ポーランドについて、次のように話されました――「子どもの頃の印象ですが、私が小さい頃、伝記を読むのが好きでした。それで、ショパンであったりとかキュリー夫人の伝記を何冊か読んだ記憶があるんですね。それで、おそらくポーランドという国について、もちろん伝記なのでそのときの国の事情も書かれていたりします。最初かどうかは分かりませんが、印象に残ったことです。それで、その後、だんだん大きくなるにつれて、たとえばポーランドが第2次世界大戦のときにたいへん大きな被害を受けて、それこそ街が甚大な被害を受けて、その後、その街をポーランド社会が一体となって復元し、それが世界遺産となって登録された。これはおそらく1980年だったかと思いますが、そのようなことを知るようになりました。」
紀子妃殿下は、次のように語られました――「中学生のとき、ショパンのワルツを友人とよく練習しておりました。そして、大学生のとき、夏休みを利用してポーランドを旅行しましたが、そのときにショパンの生家を訪れ、また、ワルシャワの歴史地区や古都クラクフの街を歩きました。そこでお聞きしたお話などから、様々な厳しい歴史の中で、人々がポーランドへの熱い思いと誇りを持ち、自国の文化を大切にしてきた気持ちが深く印象に残りました。このほかに、ポーランドの南部にあるタトラ山地の峰を登りまして、そこでのさわやかな風や見晴らしを忘れることができません。」
参考資料:
https://www.yomiuri.co.jp/national/20190621-OYT1T50313/

 

#031  国際ショパン・ピアノコンクールといえば、今でこそ「ワルシャワの秋」が連想されますが、戦前の3回(1927、1932、1937年)と戦後の3回(1955、1960、1965年)は、冬に、フリデリク・ショパンの誕生日とされる2月22日前後に開かれました。現在は、作曲家の命日(10月17日)を挟んでの開催です。
さて、1937年の第3回コンクールには、日本から初めて、甲斐美和(美和子)(1915⁻2011)と原智恵子(1914⁻2001)という二人のピアニストが参加しました。コンクールの出場者は計80名、原智恵子は21名の一人として、最終審査に残りました。1937年3月11日に行われた彼女の演奏は、聴衆から熱狂的に迎えられました。
入賞者の中に彼女の名前がないのを知った聴衆は、憤慨して騒ぎはじめました。特例として原智恵子に「聴衆賞」を贈ることでようやく沈静化したそうです。
なお、甲斐美和、原智恵子の波乱の生涯については、以下の資料でお読みください。
参考資料:
染村絢子『ラフカディオ・ハーンと六人の日本人 : 茨木清次郎・角田柳作・田部隆次・甲斐美和・雨森信成・長谷川武次郎』(能登印刷出版部 2017年)
石川康子『原智恵子 伝説のピアニスト』(ベストセラーズ 2001年)
https://columbia.jp/~chieko/profile.html

 

#032  秋篠宮皇嗣同妃両殿下がポーランドを公式訪問されました。
6月28日に、両殿下は大統領宮殿での歓迎会に臨まれ、引き続き、アンジェイ・ドゥダ大統領夫妻と会談されました。
同日の夕べ、大統領ご夫妻と秋篠宮殿下ご夫妻は、能の舞台上演をご鑑賞になられました。
6月29日に、殿下ご夫妻はクラクフで、ヤギェロン大学、ヴァヴェル王城、日本美術技術博物館〔マンガ〕などをご見学になられました。秋篠宮殿下は、「日本・ポーランド国交樹立100周年という極めて重要な節目の年に、妃殿下とともに初めてポーランドとクラクフを訪問することができ、とても嬉しく思う」と述べられました。
6月30日に両殿下はウォヴィチを訪れ、同地にある博物館で、ウォヴィチ地方の民俗美術展をご見学になり、屋外展示場では切り絵細工のデモンストレーションに参加されました。
同日両陛下は、ワルシャワのマリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館もご見学になりました。博物館長のスワヴォミル・パシュキェト氏は、この特別の折に備えて、日本語で書かれたマリア・スクウォドフスカ関係の書籍展を準備した旨、報告されました。ポーランド出身のノーベル賞受賞者は「桜咲く国」日本でとても人気があり、例えば、大人・子どものための漫画の主人公になっているほどです。
月曜日にはベルヴェデル大統領官邸で、公式の両陛下ご歓送行事が催されました。
ポーランドへのご旅行は、本年5月1日に秋篠宮殿下の兄宮にあたる徳仁天皇が即位されてから、最初のご皇族による外国ご訪問でした。
ご訪問は、両国の外交関係樹立100年を記念して行われました。大日本帝国は、イグナツィ・パデレフスキ内閣を承認したアジアで最初、世界で5番目の国家でした。

 

#033  2019年6月29日(土曜日)、ポーランドご訪問中の秋篠宮文仁親王、親王妃紀子さまは、クラクフをご訪問になられました。クラクフ市長ヤツェク・マイフロフスキ氏のお出迎えを受けられました。織物会館(スキェンニツェ)での歓迎朝食会においては、マイフロフスキ氏が乾杯の音頭をとりました。
「親王殿下殿、ご来席のみなさま!
私たちが一堂に会したこと、そして末永い友情に、杯を捧げます。その遺跡と文化の宝のすべてを誇りとする私たちの街が、親王殿下の想い出にいつまでも残りますように」
秋篠宮親王のお礼の言葉は以下の通り(要旨)――
 日本・ポーランド国交樹立100周年にポーランドの古都クラクフを訪れることができ、とても嬉しく思う
 2002年の天皇陛下(現上皇陛下)に続いて、この中世都市を訪れることができたことを喜ぶ
 フェリクス・ヤシェンスキは日本とクラクフの絆となり、その収集品は、日本美術技術博物館に展示されている
 クラクフは、コペルニクス、シンボルスカ、ヨハネ・パウロ二世にちなむ都市である
最後に親王殿下ご夫妻は、マイフロフスキ市長から、記念品にクラクフのショプカ(歴史的建造物の模型)と陶器のライコニク(モンゴル人の騎士と木馬)人形を受け取られました。
出典:
http://krakow.pl/aktualnosci/231431,26,komunikat,japonska_para_ksiazeca_w_krakowie.html

 

#034  2019年6月30日、秋篠宮文仁親王、親王妃紀子さまは、ワルシャワにあるマリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館をご見学になりました。スワヴォミル・パシュキェト館長の歓迎を受けたご夫妻は、キュリー夫人の生涯についての8分間の映画をご覧になってから、展示を見学されました。
パシュキェト館長はこう述べました――「親王ご夫妻を私たちの博物館にお迎えできるのは、たいへんな光栄です。マリア・スクウォドフスカ=キュリーが生まれてから死ぬまでの全生涯にわたって質素を貫いたように、私たちの博物館も質素なものです。秋篠宮殿下が記者会見の席で、子ども時代にマリア・スクウォドフスカ=キュリーの伝記をお知りになられた、それ故に私たちの博物館の見学を決められた、と言われたとうかがい、とても嬉しくなりました。私は以前から、とても多くの日本人がこの博物館を訪れることに目を見張る思いでした。日本のみなさまを感動させるのは、キュリー夫人がけっして自分の祖国を忘れず、常に懐かしんでいたことです。博物館は、将来のポーランド人ノーベル賞受賞者である彼女が生れた家に開設されています。彼女の母親はこの建物内にあった学校の校長でした」
博物館長は、この格別の機会に日本語での展示を作成したと述べました。「展示されている書籍は、日本で紹介されているキュリー夫人の実に多様な相貌、そして、特にどのような特徴が日本人によって強調されているかを示しています。日本におけるキュリー夫人の人気を示すのは、例えば、彼女が大人向け・子ども向けの漫画の主人公になっていること、キュリー夫人像が建てられていること、60年近く前から鳥取県のラジウム温泉として有名な三朝温泉で「キュリー祭」が開かれていることなど」です。」
Photo. PAP-Radek Pietruszka
出典:
https://warszawa.onet.pl/warszawa-japonska-para-ksiazeca-zwiedzila-muzeum-marii-sklodowskiej-curie/segbnpp#slajd-1
http://www.town.misasa.tottori.jp/315/359/2062.html

 

#035  2019年7月1日、秋篠宮文仁親王、親王妃紀子さまは、ワルシャワにあるポーランド日本情報工科大学をご訪問になられました。両殿下は、同大学学長のイェジ・P・ノヴァツキ教授、副学長の東保光彦教授、総長のバルバラ・ノヴァツカ氏、駐ポーランド日本大使川田司氏ご夫妻に会われました。ポーランド日本情報工科大学学生とご面談になられた親王ご夫妻は、大学の紹介をお聴きになられました。学生たちと、大学の特徴である、日本文化専攻過程について、また日本語と日本伝統手工芸の学習について、ご歓談になりました。新メディア芸術専攻の聴講生は、外国人講師の授業や大学で企画運営される設計ワークショップ「ジャパニーズ・ウィーク」について、ご説明いたしました。

 

#036  2019年7月1日午後、ポーランドご訪問中の秋篠宮文仁親王妃紀子さまは、ワルシャワ・モコトゥフ地区にある市立図書館「青少年のためのマルチメディア図書館31」を訪問されました。これは、日本・ポーランド国交樹立100周年にちなむ、秋篠宮親王ご夫妻のポーランドご訪問の最後の行事の一つとして、紀子さまの特別のご希望で実現しました。
アレクサンドラ・モストフスカ館長は次のように述べました――「親王ご夫妻は外国語訪問の際には必ず、その国の国際児童図書評議会(IBBY)をご訪問になります。ポーランド国際児童図書評議会は、私たちの建物の中にあります。日本では児童書への関心がとても高く、親王妃殿下ご自身、児童書を著しておられます。また、英語から日本語への翻訳もなさっておられます。」
ご訪問の初めに、妃殿下アレクサンドラ・モストフスカ館長とグラジナ・ドゥブラフスカ=ズゴワモコトゥフ地区市立図書館長のご案内で、2階の読書室に赴かれ、児童書挿絵コンクールなどへの応募作品の展示をご覧になりました。コンクールに参加した子どもたちに、ポーランド語で話しかけられました。次に、1階ホールで、児童書出版社の代表、作家(ユスティナ・ベドナレク、マルチン・シュチギェルスキ)や挿絵画家(マリアンナ・オクレヤク、ピョトル・カルスキ)などと、それぞれが持参した代表作について、歓談されました。
出典:
https://www.bpmokotow.waw.pl/bpmok/index.php/oddzialy-filie/multimedialne/mbddim-xxxi
http://warszawa.wyborcza.pl/warszawa/7,54420,24953775,ksiezna-kiko-w-bibliotece-na-mokotowie.html

 

#037  ポーランド独立回復直後の1919年7月には、早くも、ワルシャワ大学に日本語講座が開設されました。講師はボグダン・リヒテル(1891⁻1980)、ライプチヒ大学東洋学科を卒業し、1922年に同大学で博士号を取得しています。その年に、ワルシャワ大学に極東文化講座を開き、日本学・中国学の授業を始めました。
1924年には、ルヴフ(現リヴィウ)のヤン・カジミェシュ大学で準教授の資格を取得し、そこでも日本語の授業を続けました。1年後ルヴフで取得した教授資格を基に、ワルシャワ大学教授に就任しました。1932年まで教職を続けてからポーランドを出国し、2度と戻ることはありませんでした。近東に居を定め、そこでジャーナリストとして活動したからです。
リヒテルは日本文学についての著作を数点発表しています――『日本文学抜粋』(1920)『中国文学・日本文学』(1929)『日本文学史略説』(1930)。彼は、講演やラジオ番組出演を通して、日本についての広報活動にも多大の時間を捧げました。
参考資料:
Ewa Pałasz-Rutkowska, Andrzej T. Romer, Historia stosunków polsko-japońskich. Tom I. 1904-1945, Warszawa: Japonica 2019.

 

#038  文芸評論家・小説家の木村毅(1894⁻1979)は、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846⁻1916)の『クォ・ヴァディス』(1896)に魅せられていました。「ネロの時代の物語」の木村毅訳は、1924年、世界の児童文学の名作を集めた、春秋社「家庭文学名著選」の第5・6巻に収録されました。邦題は、『何處へ行く』。
その4年後の1928年2月15日、木村毅訳は、新潮社「世界文学全集」(いわゆる「円本」の一つ)第25巻として、再刊されました。邦題は、『クォ・ヷディス』。2段組み570頁の大冊には、その他に、短編が4作(「アスピンウォルの灯台守」「音楽師ヤンコ」「闇に輝く光」「祝福汝にあれ」)収録され、巻頭にはポーランド公使館のヤン・フリーリング博士の序文が付されていました。
邦題の変化は、日本における小説受容史を反映しています。1897年ごろ、日本に初めてその英訳がもたらされて以来、ラテン語の表題は「何処へ行く」「何処に行く」などという日本語に訳されてきましたが、1920年ごろからラテン語のままカタカナに転写されるようになりました。
「世界文学全集」の発行部数は各巻40万部に上ったといわれています。昭和の作家たちには、この版でシェンキェヴィチの傑作を読んだ人がたくさんいます。遠藤周作、三島由紀夫などです。
なお、木村毅訳『クォ・ヴァディス』はその後、1953年に角川文庫から3巻本として出版されています。
参考資料:
木村毅『私の文学回顧録』(青蛙房 1979年)
木村毅『大衆文学十六講』(橘書店 1933年、中公文庫 1993年)

 

#039  日刊紙「ジェチポスポリタ(共和国)」誌の付録として「ポーランド・日本協力の100年」が、出版されました。駐ポーランド日本大使館、ジェトロ(ワルシャワ事務所)、JT(インターナショナル)が、この企画をパートナーとして支援しました。編集長はイェレミ・イェンジェヨフスキ、日本大使館が提供した素材の学術顧問を務めたのは、エヴァ・ルトコフスカ教授でした。内容は以下の通りです。
アダム・ヴォジニャク「ポーランドは日本資本を引き寄せる」
河野太郎(日本国外務大臣)「私たち両国の交流史は、友情の実例でいっぱい」
ヤツェク・チャプトヴィチ教授(ポーランド共和国外務大臣)「貿易と投資における大きな可能性」
川田司(駐ポーランド日本大使)「日本人とポーランド人の性格は似ている」(談話)
日本大使館提供「天皇皇后両陛下ご訪問」
同上「戦略的パートナーシップ」
同上「ポーランドと日本――数キロに隔てられている私たち。では、私たちを繋ぐものは?」
同上「マクシミリアン・コルベとゼノン・ジェブロフスキ」
同上「アンジェイ・ワイダと彼の日本」
同上「交流と経済関係の発展」
同上「相互支援」
同上「ポーランドにおける外交関係100周年記念式典」
清水幹彦「ポーランド・日本協力の緊密化」
付録の編集パートナーとの共同執筆記事「JTI――急速な発展と戦略的投資」
ダヌタ・ヴァレフスカ「困難な道程を経て、大いなる成功へ」(自動車産業について)
同上「日本の発明品――AからZまで」
同上「一番興味深い、手間のかかる、素晴らしい」(日本料理について)
参考資料:https://www.rp.pl/

 

#040  鳥取県の三朝(みささ)温泉は、ラジウム温泉として有名です。同温泉のある三朝村(現在は三朝町)で、1951年7月4日、第1回キュリー祭が催されました。当時の三朝村長は、「ラジウムに対して感謝することを広く世界に発信」することなどを目的に、同祭を創設したそうです。その後キュリー祭は、一旦中止。
1959年11月29日にキュリー夫人の胸像が完成し、その除幕式と併せ、第3回キュリー祭が開かれました。当初はキュリー夫人の命日である7月4日に一日だけの開催でした。その後、開催期日、期間、プログラムにさまざまな変化があったキュリー祭。
第63回にあたる本年は、7月28日(日)に開かれます。
大切なことを書き忘れていました。キュリー夫人(1867⁻1934)は、ポーランドのワルシャワ出身、結婚前の氏名はマリア・スクウォドフスカ。1903年にノーベル物理学賞、1911年にノーベル化学賞を受賞しました。放射能という用語は彼女の発案によるものです。
2019年6月30日には、ポーランドご訪問中の秋篠宮親王ご夫妻が、ワルシャワ旧市街にあるキュリー夫人博物館を見学されました。

 

#041  東京の白水社が『~語入門』というタイトルの文法教科書第1号を出版したのは、1959年です。フランス語文法でした。その後、スペイン語、イタリア語、ポーランド語、ブラジル・ポルトガル語、インドネシア語、チェコ語、ルーマニア語、スウェーデン語、ロシア語、デンマーク語、ドイツ語、朝鮮語、時事経済ドイツ語、料理フランス語、中国語、経済スペイン語、時事フランス語、現代ギリシア語、アラビア語、料理イタリア語、最新経済ドイツ語、沖縄語、ハンガリー語と続きました。改訂・増訂されながら、版を改めていったものもあります。
『ポーランド語の入門』初版の刊行は1973年7月10日、著者は木村彰一(1915⁻1986)、吉上昭三(1928⁻96)両東大教授、へンルィク・リプシッツ(1940⁻ )氏が「協力者」として名を連ねています。323頁の同書は、日本で最初に出版されたポーランド語教本です。
著者たちは「まえがき」に次のように記しています――「最近、わが国ではポーランド語に対する関心がしだいに高まりつつあるように見受けられますが、これはポーランド文化の輝かしい伝統や、とみに緊密さを増しつつある日本とポーランドの貿易関係を思えば、まことに当然のことと言わなくてはなりません。ただ残念なことに、従来わが国ではポーランド語の参考書がひとつも出ていませんでしたので、学習者は英語やロシア語で書かれた必ずしも日本人向きにできていない参考書に頼らざるを得ない状況にありました。本書はこの欠陥を少しでも補うために、日本の独習者のために日本語で書かれた、わが国で初めての入門書であります。(……)本書がポーランドの生んだ世界的な大学者コペルニクス(Mikołaj Kopernik, 1473-1543)の生誕500周年記念の年に世に出ることは、ポーランドの学芸を愛好してやまないわれわれのふかく光栄とするところであります。このささやかな入門書が日本・ポーランド両国民の相互理解と親善にいささかなりとも寄与することができますなら、われわれのよろこびはこれに過ぎるものがありません。」
参考資料:
木村彰一、吉上昭三共著、ヘンルィク・リプシッツ協力『ポーランド語の入門』(1973年 白水社)

 

#042   2002年7月9日、ポーランドご訪問中の天皇陛下(現上皇陛下)は、ポーランド大統領官邸で催された晩餐会で、次のお言葉を述べられました(抜粋)。
「(ポーランドの)精神的なよりどころとして貴国の文化が果たした役割には,少なからぬものがあったと思われます。美しい楽曲や著作により世界の人々に親しまれているショパンもシェンキエヴィッチも共に失われた祖国への思いを込めた作品を作っており,それらはポーランド人の志を常に鼓舞し続けてきました。しかしショパンもシェンキエヴィッチも自身で祖国の独立を見ることはありませんでした。ショパンの開いた最後の演奏会は亡命ポーランド人のためのものであったと聞いております。
貴国は,また,芸術文化のみならず,科学の分野でも世界の歴史に残る人材を輩出してきました。地動説を提唱したコペルニクスや,物理,化学の二分野でノーベル賞を受賞したキュリー夫人が思い起こされます。我が国には科学技術の進歩に大きく寄与し,もっとも人類の繁栄と平和に貢献した人に贈られる日本国際賞があり,私どもも毎年その授賞式に出席していますが,今年の受賞者の一人は貴国のワルシャワ大学動物学研究所長のアンジェイ・タルコフスキー博士でありました。
貴国と我が国の人々との間には,様々な交流の歴史があります。貴国においては,80年以上にわたる関係者の努力によって,ワルシャワ大学を中心とする日本研究と日本語教育が,コタンスキ教授の「古事記」の研究を始め,極めて高い水準に達していると聞いております。また,アンジェイ・ワイダ氏を中心に,両国の多くの人々の協力によって,古都クラクフに「日本美術・技術センター」が設立され,浮世絵を中心としたヤシェンスキ・コレクションも保管,展示されることになりました。今後とも,両国の文化交流の一つの中心として発展していくことを望んでおります。
貴国と我が国の交流の歴史の中で,1931年から数年にわたって,我が国の長崎で人々のために力を尽くされたコルベ神父を忘れることはできません。その生涯は,コルベ神父に従って我が国を訪れ,その後50年以上にわたって,終生を我が国の戦災孤児の救済などに捧げたゼノ修道士の一生とともに,今も,折に触れ,日本の人々に思い起こされております。」
出典:
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h14e-easterneurope.html#POLAND

 

#043  公益財団法人現代人形劇センターが主催するI LOVE YOU国際人形劇フェスティバルは、第1回(1987年)から第10回(1996年)まで開かれました。毎年、世界中から招待された人形劇団が、関東・東海・四国などの諸都市を巡演し、締めくくりに、長野県飯田市で開かれる人形劇カーニバル飯田に出演しました。
ポーランドが体制転換の真っ只中にあった1989年7月15日~8月13日に開かれた第3回に、初めてポーランドの人形劇団が参加しました。テアトル・アニマツィ(所在地イェレナ・グラ、現:ポズナン)が、「山羊のマトウェク」を上演したのです。公演は大人気を呼びます。
ポーランドの劇団はその後、1991年にテアトル・アニマツィ(所在地ポズナン)(演目は「ティモテウシュとワンチャン」)、1993年にバニアルカ人形劇団(ベルスコ・ビャワ)(「少年と風の物語」、1994年にビャウィストク人形劇団(「小さなトラのピェトレク」)、1995年にテアトル・アニマツィ(ポズナン)(演目は「森の中のティモテウシュ」)が参加しました。
現代人形劇センターの仲介で、1993年7月に開催された大道人形劇フェスティバルにはアンデルセン劇場(ルブリン)の「車輪劇場」が出演しました。同年10月の岩手県国民文化祭では、テアトル・アニマツィの「ティモテウシュとワンチャン」が再演されました。
なお、同センターは、1991年にはデフパペット・シアターひとみのポーランド公演(「曽根崎心中」「わんぱくスサノオの大蛇退治」)も支援しています。
出典:
http://www.puppet.or.jp/ http://www.puppet.or.jp/puppetArchives/entryarchive/post_37.html#anchor2
http://deaf.puppet.or.jp/index_activity_history.html
http://iida-puppet.com/

 

#044  世界青年学生祭典(世界青年学生平和友好祭、世界青年学生フェスティバル、世界青年学生祝典)(英語: World Festival of Youth and Students)は、世界民主青年連盟(WFDY)と国際学生連盟(IUS)が不定期に「反帝・反戦・平和・親善・連帯」をスローガンに開催する世界規模の祭典です。第1回(1947年)はプラハ(チェコスロバキア)、第2回(1949年)はブダペスト(ハンガリー)、第3回(1951年)は東ベルリン(東ドイツ)、第4回(1953)はブカレスト(ルーマニア)、そして第5回(1955)はワルシャワ(ポーランド)で開かれました。
7月31日に開会し、8月15日に閉会しました。「平和と友好のために――攻撃的な帝国主義者同盟に抗して」をスローガンに、世界114か国から3万人が参加しました。
「祭典の準備と開催は、国中の人々の生きがいだった」と言われたほどの大行事でした。祭典直前には、ワルシャワに二つの巨大施設(ユゼフ・スターリン記念文化科学宮殿と建国10周年記念スタジアム)が誕生し、第二次世界大戦で破壊され再建が進んでいた建物は、さまざまな言語でスローガンが記された色鮮やかな横断幕で飾られました。
第5回ワルシャワ大会は、1956年からの「雪どけ」(スターリン批判、ポズナン蜂起、ゴムウカ政権誕生、ハンガリー動乱)の精神的土壌を作ったといわれています。そのさなかに開かれた第6回(1957)のモスクワ(ソ連)大会には、34,000人と祭典史上最大数の参加者が集まりました。なお、参加国数が最大数に達したのは、第13回(1989)の平壌(北朝鮮)大会の177か国です。
さて、第5回世界青年学生祭典では音楽コンクールが開かれ、8月2日、浅田石二(いしじ)(1932⁻ )作詞・木下航二(1925⁻99)作曲「原爆を許すまじ」が2等に入賞、3等に芥川也寸志(1925⁻89)作曲「弦楽のための三楽章」、伊藤徳次郎作詞(生没年不詳)・小林秀雄(1931⁻2017)作曲「広島を忘れまい」が特別賞を受賞しました。
なお、世界青年学生祭典は現在も催されています。最近では第19回(2017)がソチ(ロシア)で開かれました。
参考資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%9D%92%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%A5%AD%E5%85%B8
https://www.polskieradio.pl/39/156/Artykul/899473,W-1955-roku-Warszawa-stala-sie-miastem-mlodosci
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26315
http://bunbun.boo.jp/okera/kako/genbakuwo.htm

 

#045  1970年7月1日、イェジ・カヴァレロヴィチ監督の超大作映画『太陽の王子ファラオ(原題:ファラオ)』(1965 ポーランド封切り:1966年3月11日)の日本公開が始まりました。
19世紀リアリズム文学を代表するボレスワフ・プルス(1847⁻1912)の原作を作家・映画監督のタデウシュ・コンヴィツキ(1926⁻2015)とカヴァレロヴィチ(1922⁻2007)が脚色しました。傑作『尼僧ヨアンナ』(1960)(ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ原作)の脚色・演出者です。主役のラムゼス13世を演じたのは、ワルシャワ演劇大学学生だったイェジ・ゼルニク(1945⁻ )です。
『太陽の王子ファラオ』はポーランド内外で高く評価され、1967年にはアカデミー賞外国語映画部門にノミネートされました。完全版(ポーランド語)は175分の長尺ですが、日本で公開されたのは、119分の短縮版(英語)でした。なお、2017年のポーランド映画祭では、152分の短縮版(ポーランド語)が上映されています。
映画の宣伝コピーは、次の通り――「〈ファラオ〉この偉大なる権力にすべてを賭け 太陽の砂漠に傷ついた悲劇の王子– 壮大な歴史風俗の再現が 異様なドキュメント・タッチで迫る 鬼才カワレロウィッチ久々の秀作!」
「久々の秀作」には説明が必要です。
カヴァレロヴィチの映画は、それまでに日本公開順に、『影』(1956)(日本公開1959年)『尼僧ヨアンナ』(1961)(1962年4月)『夜行列車』(1959)(1963年3月)『戦争の真の終り』(1957)(1965年8月)の4本が紹介されていました。
『太陽の王子ファラオ』は約5年ぶりのカヴァレロヴィチ作品の日本紹介だったのです。
出典:
http://www.filmpolski.pl/fp/index.php?film=121764
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=13891#7

 

#046  工藤幸雄は、1925年3月20日に満洲大連で生まれました。旧制一高時代から現代詩を愛読し、東大仏文科に進学しました。フランス語、英語、ロシア語を習得し、さらにアメリカ留学中にポーランド語を学びました。共同通信記者を経て、1967年から74年まで、ワルシャワ大学講師を務めました。1976⁻95年、多摩美術大学教授。
著書は10冊(そのうち、詩集2冊)、波仏英露語からの翻訳書は約40冊。ミツキエヴィチ、シュルツ、ゴンブロヴィチ、シンボルスカ、カプシチンスキ、フワスコら、東欧の作家が世界文学の最高水準にあることを、工藤訳で認めさせました。1998年、読売文学賞受賞。
2008年7月5日に肺癌で死去し、14日に葬儀が行われました。レフ・カチンスキ ポーランド共和国大統領、レフ・ワレサ元大統領、アンジェイ・ワイダ&クリスティナ・ザフファトヴィチ夫妻なども、日本とポーランドの懸け橋になったかけがえない人物の死を悼みました。死後、遺稿のなかから、ムラルチク『カティンの森』とカプシチンスキ『黒檀』が出版されています。 #JP100PL
参考資料
 尾崎真理子「追悼抄」、「読売新聞」夕刊、2008年8月19日

 

#047  [生]1900.1.1. 岐阜、八百津 [没]1986.7.31. 神奈川、鎌倉
外交官。第2次世界大戦中、リトアニアの首都だったカウナスの領事館領事代理として、ユダヤ人の難民に日本通過の査証(ビザ)を独断で発給し、亡命を援助したことで知られる。
1919年早稲田大学を中退、外務省留学生としてハルビンに留学、ロシア語を学ぶ。1924年外務書記生となり、ハルビンで勤務。1937年フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任。1939年カウナス日本領事館領事代理となる。
1940年、ナチス・ドイツの迫害の強まりをうけ多数のユダヤ人難民が日本領事館につめかけるようになると、杉原は 7月以降、避難先の国の入国許可や十分な旅費をもたないなど、査証発給にかかる外務省の規定を満たさない人にも独断で日本通過の査証を発給した。ソビエト連邦のリトアニア併合に伴う同 1940年8月下旬の領事館封鎖までに計 2139家族に査証を発給し、命を救われたユダヤ人は 6000人以上とされる。ユダヤ人難民らはシベリア横断鉄道でソ連を横断、ウラジオストクから福井県敦賀市に上陸し、日本を経由してアメリカ合衆国などに亡命した。
1940年9月以降、杉原はチェコスロバキア、ソ連、ルーマニアの在外公館に赴任。1945年の日本降伏後、ブカレストの捕虜収容所に収監され、1947年4月に帰国。同 1947年6月外務省を退官。退官は独断で査証を発給した責任をとらされた結果とされる。退官後は商社などに勤務し、モスクワなどに赴任した。1969年イスラエルの宗教大臣から勲章を、1985年イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を授与された。1991年外務省により名誉回復。(『ブリタニカ国際大百科事典』)
1940年7月末からの一月間に、当時40歳だった杉原千畝は、その生涯最大の事業を成し遂げる。
1940年7月27日――日本領事館の建物の前に、日本の通過ビザを求めてやってきたポーランドからの避難民の群れ――大半はユダヤ人群衆――が初めて現れる。
同年7月28日――杉原は、外務省に宛てて、ビザ発行に関する請訓電報を打つ。やがて届いた返事は「否」。
同年7月29日――本国の方針に反してユダヤ難民に日本通過ビザの大量発給を決断した日。
同年8月11日――杉原は東京の外務省との交渉を打ち切り、自ら全責任を負って独断で、請願者全員にビザを発給することに。
同年8月31日――杉原はカウナスを離れ、ベルリンに向かう。
昨日2019年7月31日は、杉原千畝の33回目の命日でした。
参考資料:
https://kotobank.jp/…/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D-…
Ewa Pałasz-Rutkowska、 Andrzej T. Romer、 Historia stosunków polsko-japońskich. Tom 1. 1904-1945、 Warszawa: Japonica、 2019.
エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ、アンジェイ・T・ロメル(柴理子訳)『日本・ポーランド関係史』彩流社、2009年
https://mainichi.jp/articles/20190729/k00/00m/020/110000c
http://www.chiune-sugihara.jp/jp/
https://www.google.com/doodles/celebrating-chiune-sugihara…
http://www.sugihara-museum.jp/
http://sempomuseum.com/
http://sempomuseum.com/
https://wiadomosci.onet.pl/…/chiune-sugihara-japons…/rh3s8ql

 

#048  1920年と1922年の二度にわたり、765名のポーランド人児童が、シベリアと満洲からポーランド本国に送還されました。この子どもたちは、1863年の一月蜂起後に追放された人々をはじめとする政治囚、第一次世界大戦後に旧会議王国(ロシア領ポーランド)などから逃れてきた捕虜や避難民、職を求めてやってきた移民の子孫でした。その多くは孤児または片親を失った子どもたちで、中には生活手段を奪われた家庭の子どももむくまれていました。子どもたちを集めて送還するという任務を引き受けたのは、1919年にウラジオストクに設立された「ポーランド救済委員会」でした。
1920年7月5日にポーランド人児童は日本行きの許可を得ました。第一陣の引き上げ児童56名が、陸軍輸送船の筑前丸でウラジオストクを出港したのが7月20日、敦賀港到着は7月22時午前5時でした。彼らは午後4時36分発の列車で東京へ向かい、翌朝到着。仏教系の慈善団体福田会の養護施設で寝泊まりしました。以後、翌年の7月6日までの約1年間に、計375名の子どもが5つの船に分かれて日本に到着しました。福田会の他に、そこからほど近い日本赤十字病院も宿舎として利用しました。男子205名に女子170名、これに付き添いの大人が33名でした。児童の最年長者は16歳で男子1人、女子2人。最年少者は2歳の女児2人でした。
児童たちは、1920年9月から1921年7月にかけて、5陣に分かれて、横浜港からシアトルへ向かう船で日本を離れました。米国に短期滞在した後、無事祖国ポーランドに戻りました。
1922年7月と8月には、再度子どもたちの輸送が実施されることになりました。子供たちはウラジオストクから敦賀に到着した後、大阪に移動しました。日赤病院の看護婦寮に落ち着きました。移送は3回に分けて行われ、児童計390名、付き添い39名が救済されました。大阪に迎えられた子供たちも、東京と同様に日本の人々から親身の世話をしてもらい、大きな関心を寄せられました。
全員が神戸からグダンスク港に向かう船でポーランドに帰国しました。彼らの帰還の旅は、その年の8月と9月に2回に分けて行われました。

 

#049  鴨治晃次は1935年3月30日に東京で生まれました。1958年に武蔵野美術学校(現大学)を卒業しています。翌年ポーランドに居を移します。ウッチ大学で1年間ポーランドを学んだ後、ワルシャワ美術大学に入学しました(1966年卒業)。
鴨治がポーランド留学を決意したのは、伯父にあたるポーランド学者梅田良忠(1900⁻1961)と、梅田の教え子だったポーランドの日本学者ヴィェスワフ・コタンスキ(1915⁻2005)の影響によるものでした。美術大学の同窓生が主にパリに入学するなか、「頑固な」鴨治は、「みんなパリに行くなら、私はポーランドに行こう。それにポーランドからパリはさほど遠くない」と考えたそうです。
大きなトランク8個に「日常生活に必要なものを一切合切詰めて」、「ステファン・オクシェヤ」号で2か月半をかけて、グディニャ港にたどり着きました。
鴨治は、「日本人とポーランド人の国民性にいささかの違いも見出しませんでした。南欧では、彼の地の住民の気質との違いから、もっと異国感を感じていたと思います。ポーランド人が直截で解放的で自然なのに感動しました。それに、日本にとても友好的だったのです」
「技術だけでなく、美術に携わることの本質」を教えてくれたというアルトゥル・ナフト=サムボルスキ(1898⁻1974)教授の指導もあって、鴨治はポーランド永住を決意します。初めての帰国は、到着から14年後でした。生活のために、20年以上、日本の商社に通訳として勤務しました。
鴨治の代表作は、絵画、オブジェ、インスタレーションなど。東洋の美術・美学・哲学のモチーフを用いた作品のキーワードは「対話」です。
ヘンリク・スタジェフスキ(1894⁻1988)、アルフレト・レニツァ(1899⁻1977)、タデウシュ・カントル(1915⁻1990)、エドヴァルト・クラシンスキ(1925⁻2004)、ヴウォジミェシュ・ボロフスキ(1930⁻2008)、アンジェイ・シェフチク(1950⁻2001)、などの著名美術家と、芸術上の交流を持ちました。
1965年にポーランドで初めての個展を開き、1967年以降フォクサル画廊(ワルシャワ)と共働しています。ポーランド現代美術を代表するアーティストになった鴨治は、2015年に、ヤン・ツィビス賞を受賞しています。日本では鴨治の作品は、これまでに2度しか展示されたことがありません。
鴨治の美術家としての信条は、「生きる上で一番大切なのは平安な状態です。平安に生きているという状態です。それはささやかなものかもしれません。いずれにせよ、私は名声や金のために描いているのではありません。重要なのは、内面の充足です」
2018年6月16日から8月26日まで、ワルシャワのザヘンタ画廊で、鴨治晃次の大規模な回顧展「沈黙と生への意志」が開かれました。同展は本年4月13日から6月30日まで、クラクフの日本美術・技術博物館〔マンガ〕でも催されました。

 

#050  「日本の美術展覧会記録1945⁻2005」というデータベースによると、「ポーランド」がタイトルに含まれている最初の美術展は、1966年7月15日~8月21日に東京近代美術館で開かれた「ポーランドのポスター」でした。その後2005年までの40年間に、計49のポーランド美術展が開かれていますが、(タイトルから判断する限り)ポスター関連は26とその約半数を占めていることがわかります。20世紀後半の日本においてポーランドのポスター美術は、ポーランド美術を代表するジャンルとして評価されていた(現在でも?)のがわかります。
「ポーランドのポスター」の主催は、国立近代美術館, 日本宣伝美術会, 日本ユネスコ国内委員会。27作家の119点の作品が展示され、会期33日間に、20,151人が入場したそうです。東京美術から出版された図録には、グラフィック・デザイナーの河野鷹思(1906⁻1999)が、「ポーランドのポスター : その作家達と個性」という序文を寄稿しています。
同展は、1966年6月6日にワルシャワ・ザヘンタ画廊で開かれた第1回ポーランド・ポスター・ビエンナーレと連動していました。1968年には世界初のポスター専門美術館ヴィラヌフ・ポスター美術館がワルシャワ国立美術館分館として開設され、第2回以降のビエンナーレの開催場所にもなりました。
日本での最新のポーランド・ポスター展は、2019年4月6日~6月23日に神奈川県立近代美術館で開かれた「ポーランド・ポスターの光彩」です。

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