「私たちの双肩にかかった課題は、ポーランド兵士の勇名を全世界に轟かすだろう」
第二次世界大戦の命運を決する最も重要で最も苛烈な戦闘のひとつであった〈モンテ・カッシーノの戦い〉は、第2ポーランド軍団の勝利に終わりました。これは、イタリアのモンテ・カッシーノ丘のベネディクト会修道院を守護するドイツ軍部隊に対する、連合国軍の4度目の攻撃にあたります。ポーランド兵士の勝利によって、ドイツ軍防御線が破られ、連合軍によるローマ解放への道が開かれました。
モンテ・カッシーノ丘とその頂上にあるベネディクト会修道院には、ドイツの守備態勢(所謂グスタフ・ライン)にとって、要となる意味がありました。1944年前半、要塞化された修道院を守備するドイツ軍部隊は、連合軍の重なる攻撃を難なく退け、それに続いて、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、南アフリカ、ニュージーランド、インド軍部隊が指揮した攻撃も不首尾に終わっていました。
第4回攻撃には、ヴワディスワフ・アンデルス大将の決断により、1943年から1944年にかけてイタリアに投入されていた第2ポーランド軍団が、加わりました。アンデルスは、第2軍団の兵士たちに向けて、歴史的な命令文書を発しました。
兵士諸君!
私たちの双肩にかかった課題は、ポーランド兵士の勇名を全世界に轟かすだろう。今からの数時間、全国民の思いと心が私たちとともにあり、倒れた同胞兵の魂が私たちを支えてくれるだろう。あなた方の心に、獅子が居を定めるように!
兵士諸君――ドイツ軍の無法なポーランド侵攻、ボルシェビキ(ソ連)とのポーランド分割占領、廃墟と化せられた数戦の町村、私たちの数十万人の兄弟姉妹の虐殺・拷問、捕虜としてドイツに連行された数百万のポーランド人、国の不運と不幸、私たちの苦難と流浪に抗して、私たちは前に進む――神の慈悲の公正さを信じつつ、心に「神、誇り、祖国」という神聖なる信条を抱きつつ。
第1・2次包囲作戦はドイツ軍部隊によって退けられましたが、1週間近く続いた甚大な人的被害を伴った戦闘の末、1944年5月18日にドイツ軍の抵抗は崩れ、修道院は連合軍が占領しました。5月18日正午、モンテ・カッシーノ丘の上に、勝利の赤・白ポーランド旗が立てられました。攻撃で、923名のポーランド軍兵士が斃れ、2931名が負傷し、345名が行方不明になりました。
〈モンテ・カッシーノの戦い〉は、ポーランド人の勇気と献身、いやなによりも、ナチスと戦う世界の他民族との連帯の証でした。第二次世界大戦の命運にとって根幹的意味を持ったポーランド軍の勝利によって、ソ連がすでにポーランド旧領土の半分を占領していた当時、西側諸国の指導者たちはポーランドの独立回復を思い出すはずでした。後年明らかになったところでは、ポーランド軍兵士がモンテ・カッシーノ丘の下で戦っていたころ、戦後ポーランドとその国境の将来に関する決定は、1943年テヘラン会議で、スターリン、ルーズベルト、チャーチルによってすでに下されており、後のヤルタ会談でそれに極印が押されたのでした。
包囲作戦継続中には墓地建設の決定が下され、戦闘で倒れたポーランド兵たちが葬られました。今日モンテ・カッシーノ丘の麓にあるポーランド人墓地は、最も重要なポーランドの共同墓地の一つです。
モンテ・カッシーノの戦いを記念して、ワルシャワの無名戦士の墓にはプレートが掲げられ、クラクフの無名戦士の墓の点火台には銘文が刻まれました。1999年には、ワルシャワのヴワディスワフ・アンデルス通りとクラシンスキ公園の近くで、〈戦い〉とそれに加わったポーランド人英雄たちを記念するモニュメントの除幕式が行われました。