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今年は日本とポーランドの国交樹立100年という節目の年です。皆さまと一緒に様々な場面や思い出を共有できたらと思い、この1年に亘って両国のつながりを紹介して参ります。SNSで #JP100PL と #PL100JP をフォローして下さいね。皆さまにとって素晴らしい年となりますように!

 

1月8日は、コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ神父 1894-1941)の125回目の誕生日です。1930年に身寄りもなく、言葉も知らずに布教のため日本にやってきたコルベ神父。長崎に設立した聖母の騎士修道院は今でも活動を続けています。1941年、強制収容所の中で餓死刑に選ばれた囚人1人の身代わりになると申し出て地下牢の餓死室で逝去。彼のことを知る人は日本でも多く、忘れてはならない人物のひとりです。

 

 

 

2016年1月13日にLOTポーランド航空のワルシャワ-東京直行便が就航しました。2019年には毎日運航が予定されています。この路線により、両国の距離はぐっと近くなりました。今年はぜひ、ポーランドへお出かけ下さい!

 

 

 

日本は、アメリカ合衆国、フランス、英国、イタリアに続き、世界でも逸早くポーランドの独立回復を承認した国の一つです。1919年3月6日の正式な国交樹立は、両国に友好関係で結ばれた新たな時代を開きました。戦間期の20年間、ポーランドと日本は、政治、経済、軍事、対ソ協力を中心とした諜報分野において協力を続けていました。ポーランドと日本が共同でソ連の暗号を解読していたのも、余り知られていない事実

 

 

ポーランドのウィンター・スポーツといえば、スキー・ジャンプ選手の活躍が思い出されます。現役選手では、ワールドカップで2度の年間総合優勝を果たし、ソチ(2014)と平昌(2018)のオリンピックでメダルを計4個(金3個、銅1個)獲得したカミル・ストフ(1987年生まれ)が有名です。すでに現役を退いた選手では、ワールドカップで4回年間総合チャンピオンになり、ソルトレイクシティ(2002年)とバンクーバー(2010年)のオリンピックでメダルを計4個(銀3個、銅1個)獲得したアダム・マウィシュ(1977年生まれ)が有名です。
さらに歴史を遡るならば、大倉山ジャンプ台で催された札幌冬季五輪90メートル級(現ラージヒル)ジャンプ競技で、金メダルに輝いたヴォイチェフ・フォルトゥナ(1952年生まれ)を忘れることはできません。それは、1972年2月11日(建国記念日)の出来事でした。フォルトゥナは、2月6日の宮の森ジャンプ台での70メートル級(現ノーマルヒル)競技では6位に入っていました(金銀銅メダルを獲得したのは、笠谷幸生、金野昭次、青地清二のいわゆる「日の丸飛行隊」)。5万人の観客と数百万のTV視聴者が見守る中、ポーランドのジャンプ選手は見事優勝を果たしました。日本人最高位は、笠井幸生の6位でした。

#007 1901年2月、ワルシャワの「ザヘンタ」画廊で、ポーランドで初めての日本美術展が開かれていました。コレクションの主はフェリクス・“マンガ”・ヤシェンスキ(1861⁻1929)。ベルリンとパリで、経済学、哲学、文学、美術史、音楽史を学びました。パリでジャポニズムに魅了されます。生涯に約1万5千点の美術を収集しましたが、そのうち6千5百点が日本美術でした。彼自身、日本を訪れたことは一度もありません。しかし、欧州全域を旅して日本美術に関する知識を深めていきました。
1890年代初めにワルシャワに戻り、日本美術などに関する著作を次々と発表した後、20世紀最初の年に、日本美術展を開催したのでした。展覧会は観客からも批評家からも不評で、失望したヤシェンスキはクラクフに移住し、やがて美術界のメセナとして名高い存在になります。1920年には、自らのコレクションをクラクフ市に寄贈しました。ヤシェンスキ・コレクションは、長らく常設展示のための場所を持たずに死蔵されていましたが、1980年代後半に映画監督・舞台演出家のアンジェイ・ワイダ(1926⁻2016)が京都賞の賞金を基に、京都・クラクフ基金の設立を提案して、公的予算の他個人・団体からの募金を集めます。その活動が実って「日本美術技術博物館マンガ」が開館したのは、1994年11月のことでした。

#008  日本とポーランド人民共和国との国交回復に関する協定の調印は、1957年2月8日午後3時(日本時間9日午前5時)に、ニューヨークにおいて、行われました。調印者は、日本側が加瀬大使、ポーランド側がユゼフ・ヴィニェヴィチ外務次官でした。ポーランドは日本にとって、共産圏ではソ連に次いで2番目の国交回復国であり、これによって東欧に初めての外交拠点が設けられることになりました。
当時の日本では、ちょっとしたポーランド・ブームが起こり、大阪には日本ポーランド文学会が設立されました。「ポーランドから日本の若い教師、医師などの人々と文通を望む手紙が毎日のように来ている。同会は適当な文通相手を探しポーランド語の翻訳を引き受けるといっている」(「読売新聞」北大阪版 1957年2月13日)

#009  ポーランドで初めて日本演劇が公演されたのは、三国分割期の1902年です。川上音二郎・貞奴夫妻が、1899~1902年の欧米公演の一部として、4都市を巡演したのです。1908⁻09年には、女優ハナコ(本名・大田久)の一座も、ポーランドを3回訪れています。
独立回復後のポーランド人は、より豊かで多彩な日本演劇を知る機会を得ました。伝統演劇、モダンバレエ、歌劇などです。
今回は、歌舞伎に焦点を当てることにしましょう。歌舞伎の海外公演は、1928年のソ連(現ロシア)公演に始まり、今日までに36か国110都市を訪れているそうです(松竹のHP)。その最初期にあたる1931年2月に、ワルシャワ、ポズナン、ウッチ、クラクフ、ルヴフの5都市で計18回の公演が行われました。
以下は、ルヴフ公演後に発表された絶賛評の一部です――「その演技は内面世界の外部への放出であり、厳粛で集中的で、渓流のように速くてはかなく、人生のようであり、また、生成と消滅の永遠のプロセスのようである。真実と神を呼吸している。それ故、この異国の劇の魔術は時折、我々に親しく、わかりやすく、我々と似通ったものとなる。偽りだらけの西洋の演劇よりも。」

#010  日本の桜が初めてポーランドに植えられたのは、そして開花したのは、何年か? それはポーランドのどこだったのか?――正確な記録は残っていませんが、アルカディウシュ・タルノフスキ『ポーランドと日本 1989⁻2004 政治・経済・文化関係』(2009)によれば、1995年3月30日に、ワルシャワ王宮近くで桜と梅の木約40本の植樹式が行われたそうです。その後、桜はポーランドの地にも次第に広く深く根を下ろし、現在ではワルシャワ大学植物園などでも花見を楽しむことができます。また、「桜」を名称に含む商店・学校は全国に多数あり、ワルシャワには「桜団地」もあります。

#011  コンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士ゼノン・ジェブロフスキ(1891‐1982)は、1930年4月24日、マキシミリアン・コルベ神父や他の修道士たちと共に来日しました。彼らは、長崎で、布教誌「聖母の騎士」の編集と普及に力を入れました。1936年にコルベ神父が帰国した後も、日本で活動を続けていましたが、1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下で被災します。戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くしました。
献身的な社会福祉活動に対し、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られました。またポーランドからは1976年にポーランド人民功労勲章(ポーランド語版)(現ポーランド共和国功労勲章)第4等を授与されています。
1967年創設の吉川英治文化賞は、日本の文化活動に著しく貢献した人物・並びにグループに対して贈呈されます。吉川英治(1892⁻1962)は、言わずと知れた『宮本武蔵』(1935-39)など数々の歴史・時代小説の名作を著した小説家です。
ジェブロフスキ修道士は、所謂「国際賞」ではない同賞を受賞した最初の外国人でした。1979年4月11日に行われた授賞式では、「孤児やホームレスの救援活動に多大の功績をあげ、半世紀にわたりわが国の社会福祉に貢献している」という授賞理由が読み上げられました。
参考:https://www.kodansha.co.jp/about/nextgeneration/archive/22289

#012  日本におけるポーランド語教本の出版に最大の功績があった出版社は、東京の白水社でした。
1973年7月10日――木村彰一、吉上昭三著『ポーランド語の入門』初版
1976年5月20日――ヘンルィク・リプシッツ 吉上昭三著『標準ポーランド語会話』初版
1981年5月20日――木村彰一、工藤幸雄他著『ポーランド語辞典』初版
1987年4月23日――石井哲士朗著『エクスプレス ポーランド語』初版
2008年12月10日――石井哲士朗 三井レナータ著『ニューエクスプレス ポーランド語』初版
今回は、間もなく出版32周年を迎える『エクスプレス』シリーズに焦点を当てましょう。
旧版『エクスプレス』は昭和末から平成20年まで、新版『ニューエクスプレス』は平成20年から令和時代まで愛用される教科書になりました。前者の主人公はサラリーマンでポーランド旅行中の水野裕介さん、後者の主人公はポーランド語の夏期講座に通う大学生の山本恵理さんです。主人公のプロフィールが変わったのは、東京外国語大学ポーランド語専攻開設(1991年4月1日)と関係しているはずです。
石井哲士朗教授は、旧版の序文に、次のように認めています――「最近、日本では、ポーランドへの関心がとみに高まってきました。(……)本書は、さまざまな分野でポーランドに関心を寄せる方々に、一人でも多く、この国の言葉を知ってほしいという願いを込めて書いたものです」「今年は、日本とポーランドの国交が回復されてから、ちょうど30年目にあたります。両国の交流が今後ますます発展することを祈りつつ、このささやかな入門書を世に送ります」

#013  浅井金蔵(1918⁻1968)は大阪外国語大学英語科を卒業後、大阪朝日新聞に勤務します。第二次世界大戦後、母校でロシア語を学びます。京都大学経済学部卒業後の1951年に米国コネチカット大学院に留学します。そこで指導を受けたポーランド系経済学者の影響でポーランド文学に関心を抱くようになります。1952年から逝去まで、大阪読売新聞の記者を務めました。
米国から帰国後、ポーランド文学作品の翻訳に取り組み、1956年初めまでにアダム・ミツキェヴィチの全作品を日本語に移植し終えています。ポーランド科学アカデミーは、浅井金蔵宛に、ミツキェヴィチ死後100周年記念学会への招待状を発送します。浅井は、4月17⁻20日にワルシャワで開かれる学会への参加を決めます。
訳稿を携えた浅井が日本を発ったのは4月11日です。当時日本とポーランドの間には国交がなかったため、デンマークでポーランド滞在ビザを取得しました。
学会初日に、スピーチを行っています。2か月のポーランド滞在中に訳稿はマイクロフィルムに撮影され、今日も国立図書館に保存されています。
浅井金蔵がポーランドから帰国したのは、6月27日です。所謂「ポズナン暴動」が勃発する前日のことでした。

#014  パヴェウ・パヴリコフスキ監督『COLD WAR あの歌、2つの心』(2018)の第91回アカデミー賞3部門ノミネート、日本公開(6月28日)を機に、タデウシュ・スィギェティンスキ記念国立民族歌謡舞踊団「マゾフシェ」への関心が高まっています。映画に登場する民族舞踊団「マズレク」が「マゾフシェ」をモデルにし、映画中で象徴的に繰り返される主題歌「二つの心」も「マゾフシェ」のレパートリーだからです。
当初「マゾフシェ」の国外公演は、ソ連、ドイツ民主共和国(東ドイツ)、ユーゴスラビアなど社会主義国ばかりでした。1954年に初めて「鉄のカーテン」の向こうのパリで公演を行い、1960年にはアメリカ合衆国とアジア諸国を訪れることになったのです。
「マゾフシェ」一行125名は、中国公演後、香港から「クリーヴランド大統領」号に乗船し
、1960年3月15日に横浜に到着しました。最初の公演は、3月19日に東京の日比谷公会堂で催され、以後、東京・大阪などで4月12日までに計16回の公演を行いました。招聘元は創立5周年事業を展開していたラジオ東京(JOKR)、コンサートは同時にショパン誕生150年祭の一環として
催されました。「マゾフシェ」が2度目の公演のために日本を訪れたのは1981年、三度目は1989年のことでした。

#015  クシシュトフ・インガルデン(1957⁻ )は、ポーランド・日本の文化交流に多大の功績をあげた建築家です――日本美術技術センター〔マンガ〕(現博物館)(1994)建設に際しては、師匠の磯崎新に協力し、自ら在ポーランド日本大使館(2000)、愛・地球博ポーランド館(2005)、ヴィスピャンスキ館(クラクフ)(2007)、ヨーロッパ・極東ギャラリー――〔マンガ〕博物館別館(2015)などを設計してきました。
インガルデンの作品である駐日ポーランド共和国大使館の開館式が盛大に催されたのは、2001年5月30日です。
1995年に、駐日ポーランド共和国大使館設計コンペを勝ち抜いたクシシュトフ・インガルデンとIngarden & Ewý Architekciの前に、さまざまな制約と非常に厳密な空間利用計画という課題が立ちふさがりました。敷地として指定されたのは、目黒区の住宅密集地帯の斜面にあるけっして大きくはない場所。法律に従って、新しい建築物の高さは12メートルを超えることはできず、土地の20%は緑地のまま残さなくてはなりませんでした。外務省は、大使館内の部屋の面積と数を細かく規定しました。なるべく多くの空間を確保するために、建物の礎石は地中深くに置かれました。
こうして、大使など職員の執務室、会議室、玄関ホール、多目的ホール、宿泊施設、駐車場などを備えた、機能的かつ美的な建築の傑作が誕生しました。
なお、クシシュトフ・インガルデンとアンジェイ・ワイダ(映画監督・舞台演出家)の共働がテーマの記録映画『いちばん大切なもの――それは着想/アンジェイ・ワイダの建築にかける情熱』(2017 ヤツェク・リンク=レンチョフスキ監督)は、本年度ポーランド映画祭(東京など)で上映の予定です。乞うご期待!
出典:https://culture.pl/pl/dzielo/ambasada-rp-w-tokio

#016  2009年5月31日に、東京の彩流社から、ポーランド・日本関係史に関する基本文献である、エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ(日本研究者)+アンジェイ・T・ロメル(「日ポ間の出来事を間近で観察してきた目撃証人」――日本語版への「訳書あとがき」より)共著『日本・ポーランド関係史 1904⁻1945』(原題)が出版されました。
原書初版(ワルシャワ:ベローナ出版所)は1995年秋に完成し、翌年6月28日にワルシャワ王宮コンサート・ホールでお披露目されました。大幅な増補改訂を経た第二版(ワルシャワ・トリオ社)は、ポーランド・日本国交樹立90周年の2009年春にまとめられました。国交樹立100周年を前に、2018年秋には、『ポーランド・日本関係史 第1巻 1904⁻1945』の表題で、第3版(ワルシャワ・ヤポニカ社)ができあがりました。パワシュ=ルトコフスカは、最新版を、2018年2月に死去した、共著者のアンジェイ・T・ロメルに捧げています。エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ『ポーランド・日本関係史 第2巻 1945⁻2018』も近く刊行される予定です。
柴理子による日本語版は、初版の「新訂増補版」にあたります。本の帯広告には、「日・ポ国交樹立90周年記念出版! 知られざる日・ポ関係と中欧における日本外交の側面を描く!」と謡われていました。ご一読をお勧めいたします!

#017 「人類の進歩と調和」がテーマの日本万国博覧会(1970年3月15日~9月13日 大阪)には、世界77か国が参加しました。ヨーロッパの社会主義国(ポーランドもそのひとつでした)としては、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ソビエト連邦、東ドイツ(西ドイツと合同で)が出展しています。ポーランドも参加の予定でした。1968年5月4日に、ポーランド政府は参加を決定し、同月18日には万博の敷地契約に調印しています。しかし、最終的に参加を諦めました。
万博の一環として、1970年4月1~10日に、大阪フェスティバルホールで催された「第1回日本国際映画祭」(東京国際映画祭の前身)において、ポーランド映画『マテウシュの青春』(原題:マテウシュの生涯)(1967 ヴィトルト・レシュチンスキ監督)が上映されました。この映画祭に出席するために、初来日したのがアンジェイ・ワイダ(1926⁻2016)。3月30日から4月5日までの間、東京と大阪に滞在しています。監督の案内役を務めたのが翻訳家・作家のロジャー・パルヴァース(1944⁻ )でした。彼の勧めで文楽の舞台と篠田正浩監督の映画『心中天網島』(1969)を観、「黒子の神秘的な役割に目を向けるようになった」といいます。その結果、自ら演出した舞台『悪霊』(1971)に、黒子を登場させることになりました。来日中には、映画評論家の山田宏一(1938⁻ )のインタビューに答えています。興味深い発言が多々含まれていますので、ぜひご一読を!
さて、2025年には、再び大阪の地で「大阪・関西万博」が開かれることに決まりました。2005年「愛・地球博」の大成功だったポーランド館から20年、今回はどんな展示を用意してくれるか、今から楽しみです。

出典:日本東欧関係研究会『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』(1982年 東欧史研究会・日本東欧関係研究会)
アンジェイ・ワイダ(西野常夫監訳)『映画と祖国と人生と……』(2009年 凱風社)
山田宏一「ポーランド式映画作法 アンジェイ・ワイダ〈監督〉と語る」、『映画とは何か 山田宏一映画インタビュー集』(1988年 草思社)

#018  日本とポーランドの間に国交が結ばれると、公使館(ならびに領事館)が相互に設置されました。初代駐日ポーランド公使ユゼフ・タルゴフスキ(1883⁻1952)の着任は1920年8月17日(駐日公使館の館員名簿を外務省に提出した日)、初代駐ポーランド日本公使川上俊彦(1861⁻1935)の着任は1921年5月6日でした。
川上公使に続いて、山脇正隆大尉(1886⁻1974)が、公使館付き武官として着任しますが、実は彼は、1919年6月から参謀本部代表としてすでにワルシャワに常駐していました。山脇は、戦間期を通してポ日関係に重要な役割を果たしました。
川上俊彦は、東京外国語学校ロシア語科を卒業して外務省に勤務し、ハルビン、モスクワの総領事を歴任した、ロシア問題の専門家でした。政治家でポーランド・ナショナリズム理論家だったロマン・ドモフスキ(1864⁻1939)が、日露戦争中の1904年5月15日から7月22日まで日本に滞在したときに、通訳として同行したことでも知られています。彼は、川上公使の任期は1923年1月に終わりました。

出典:エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ、アンジェイ・T・ロメル(柴理子訳)『日本・ポーランド関係史』(彩流社:2009年)

#019  喜ばしいお知らせがあります。本年5月20日、ワルシャワのフリデリク・ショパン協会(TiFC)にて、偉大な翻訳家であり、日本におけるポーランド文学の第一人者の一人である関口時正様へのフリデリク・ショパン協会賞授与式が催されました。
フリデリク・ショパンの芸術と生涯の普及における偉大な功績に対して授けられる、フリデリク・ショパン協会(TiFC)賞は、数年前にTiFC会員総会で創設されました。これまでに、関口様の他、次の方々が、同賞を受賞しています。
マレク・ケッレル;芸術愛好家、世界におけるポーランド文化の偉大な普及者、教会に貴重なショパン関係資料を寄贈。
アレクサンドラ・グウォヴァツカ:30年前からサンニキ市(ポーランド、マゾフシェ県)ショパン愛好会代表を務め、ショパン顕彰に極めて大きな功績を上げた。
心よりお祝い申し上げます!

#020  ロマン・ポランスキ監督の長編デビュー作『水の中のナイフ』(1961)が日本で封切られたのは、1965年6月1日でした。本国ポーランドでの劇場公開(1962年3月9日)から、3年以上遅れての日本紹介となりました。それでも、ポーランドの新人監督映画が公開されるに至ったのは、ヴェネツィア映画祭での国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞受賞(1962)、オスカー外国語映画賞ノミネート(1963)によって、国際的評価が高まっていたためです。
多数の批評が発表されましたが、ここでは、作家・吉行淳之介(1924⁻94)の「映画と短篇小説」(「世界」1964年8月号)と映画監督・浦山桐郎(1930⁻85)の「ナイフのいらない女」(「映画芸術」1965年7月号)をご紹介しましょう。
吉行は「たくさんのイメージの堆積が威力を発揮する」点で『水の中のナイフ』はすぐれた短編小説に似ている、と記しました。すでに1963年にこの映画をワルシャワで観ていた浦山は「同じように新鮮な感銘を受けた」と書いています。映画評の最後に、「ショパンがマズルカやポロネーズを書かねばならなかったように、このアンファンテリブルも恐らくプレリュードとともにポロネーズを歌わざるを得ない宿命を持ちつづけるのではなかろうか。フランス風な名をもったクリスチーヌが魅力あふれるポーランド女性である限り」と書いていますが。周知のようにこの予言は的中しました。ポランスキは、デビュー作の40年後に、『戦場のピアニスト』(2001)でポーランドに帰還したからです。

参考資料:
吉行淳之介「映画と短篇小説」、『鬱の一年』(1978年 角川文庫)所収
浦山桐郎「ナイフのいらない女――『水の中のナイフ』評」、小川徹(編集委員会代表)『現代日本映画論大系 第六巻 日本に来た外国映画』(1972年 冬樹社)所収

#021  日本学者のボレスワフ・シュチェシニャク(1908⁻1996)は、第二次世界大戦勃発直前の1939年5月から、東京の立教大学で、日本で最初のポーランド語講座とポーランド文学史講義を担当しました。彼は、1937⁻42年に駐日ポーランド大使館に勤務し、また1938からは、早稲田大学文学の正規学生として、日本古代史を専攻しました。講義は、1941年10月4日に駐日ポーランド大使館の閉鎖が決まってからさらに半年間、1942年3月まで続きました。第二次世界大戦後、シュチェシニャクはイギリスを経て米国に渡り、ノートルダム大学教授に就任しました。日本及び日本・ポーランド関係についての貴重な論文の著者です。

参考資料:
Ewa Pałasz-Rutkowska, Andrzej T. Romer, Historia stosunków polsko-japońskich. Tom 1. 1904-1945, Warszawa: Japonica, 2019

#022  1949年6月5日に、東京の帝国書院から『野の国ポーランド――その歴史と文化――』という238頁の書籍が刊行されました。もりやひさし,守屋長(1906⁻?)とおだとらのすけ,織田寅之助(1902⁻1960)の共著による、第二次世界戦後初めて日本で刊行されたポーランド案内書です。
内容は以下の通り――はしがき(守屋)/宿命の国――平原に泣く民族――(織田)/ピウスヅキー元帥の死(織田)/ポーランド人(織田)/野の花――ポーランド文芸史――(織田、守屋)/パン・トゥヷルドフスキ――ポーランドのファウスト伝説――(守屋)/拙き日本語教師として(守屋)/ポーランド語のはなし(守屋)/歌劇「ハリカ」(守屋)/ポーランド古伝説のうち三つ(守屋)/エル文字の談義(守屋)/混雑した間違(守屋)/ワルシャワ駅の回顧(織田)/旧都クラコフの想出(織田)/「極東よりの青年会」(織田)/この人々に!(守屋)/跋にかえて(織田)
守屋は東京生まれ。1937年に日本ポーランド交換学生として渡欧し、引き続きポーランド、ドイツに滞在して1945年に帰国しています。戦後は、神戸経済大学予科でロシア語教授を務めました。『野の国』のうち、主に文化・芸術関係の章を執筆しました。
織田は名古屋生まれ。1922⁻25年外務省留学生としてポーランドに留学、以後、駐ポーランド日本公使館勤務(1927⁻32、1934⁻37)を含む計20余年を海外ですごしました。戦争中はカリーニングラード(当時はドイツ領)に居住し、ドイツ降伏によってソ連経由で帰朝しました。1949年にはすでに外務省を退官して、美術、音楽、著述等に専念していました。『野の国』のうち、歴史に関する章を執筆しました。
本書は、副題にあるポーランドの「歴史と文化」にとどまらず、日ポ交流史についての最初の紹介文献として、今日もその価値を失っていません。
参考資料:
守屋長・織田寅之助『野の国ポーランド――その歴史と文化――』1949年、帝国書院
Ewa Pałasz-Rutkowska, Andrzej T. Romer, Historia stosunków polsko-japońskich. Tom 1. 1904-1945, Warszawa: Japonica, 2019

#023   2019年6月1日、ポーランドのクラクフにある柔道クラブ「UKS柔道クラクフ」の小中高校生15人が、和歌山県上富田町の熊野高校を訪れ、地元の小中学生約40人と合同稽古をした。
障害のある子どもらに柔道を教えている「光真道場」(由良町)代表で日高柔道協会会長の楠山光一さんがポーランドの子どもらを受け入れた。昨年に続いて2回目。UKSからは他に、代表のアルトゥール・クウィスさん、指導者としてアトランタ五輪男子柔95キロ級金メダリストのパウエル・ナツラ(パヴェウ・ナストゥラ)さんが訪れた。5月24日から由良町内に宿泊し、同町内や箕島中学校で日高・有田地方の子どもらと合同稽古をした。
楠山さんは「柔道もグローバル化が大切で、柔道を通した世界平和を目指している。一行は日本の柔道を地域の取り組みから学ぼうと真剣で、交流もできてよかった」と話している。
参考資料: https://www.agara.co.jp/article/10087, http://uksjudokrakow.pl/

#024  日本美術技術センター(現:博物館)マンガの開館式が盛大に催されたのは、1994年11月30日です(1987年にアンジェイ・ワイダ監督がその建設を提唱してから、その7年後に完成するまでの経緯については、後日、別途物語らなくてはなりません)。それに先立つ2年半前の1992年6月に、東京でセンターの建設基金を集める募金活動が行われました。場所は、デパート「プランタン銀座」です。
同デパートでは、同時にポーランドの歴史と芸術、日常生活、民族衣装などの展示が行われました。ポーランド企業の輸出品も並べられたそうです。アンジェイ・ワイダ監督と駐日ポーランド共和国大使ヘンルィク・リプシッツ氏も募金活動を助けました。
参考資料:
Arkadiusz Tarnowski, “Polska i Japonia 1989-2004. Stosunki polityczne, gospodarcze i kulturalne”, Warszawa: Wydawnictwo TRIO, 2009.

#025  東京の白水社が『標準~語会話』というタイトルの会話帳第1号を出版したのは、1932年です。フランス語の会話帳でした。その後、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、中国語、ポーランド語、イタリア語、ブラジル・ポルトガル語、インドネシア語、スウェーデン語、チェコ語と続きました。改訂・増訂されながら、版を改めていったものもあります。『標準~語会話』シリーズの、(今のところ)最終巻は、2001年4月25日に出版された『標準ポーランド会話(改訂版)』です。
『標準ポーランド語会話』初版の刊行は1976年5月20日、著者はヘンルィク・リプシッツ(1940⁻ )、吉上昭三(1928⁻96)という、ポーランドにおける日本学と日本におけるポーランド学の泰斗です。第二版では、第三の著者として、ポーランド在住ジャーナリストの松本照男(1942⁻ )が加わりました。
『標準ポーランド語』は、1973年に白水社から日本で最初のポーランド語の学習書として出版された木村彰一、吉上昭三共著『ポーランド語の入門』に続く教本です。会話帳としてだけでなく、テーマ別単語集としても、使い勝手のよい優れた書物です。1976年12月にポーランドを訪れた作家・遠藤周作のポケットにも、まだ新刊だった『標準ポーランド語会話』が入っていました。
吉上昭三は「まえがき」に「観光を含めポーランドを訪れる日本人の数はここ数年とみに増大し、やがて年間万を数えようとしており、また両国間の旅客機の相互乗り入れも日程に上っていると聞きます」と記しています。それから40年後の2016年1月には、ワルシャワ・成田直行便が就航し、2018年に、ポーランドを訪れる日本人の数は10万人を超えました。
参考資料:
遠藤周作『お茶を飲みながら』(1979年 小学館)

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