執筆:エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ教授
ポーランドと日本は、地理的にも文化的にも遠く離れた国です。歴史の流れが両国を近づけることもありませんでした。第一次世界大戦終結まで、独立国家として存在しなかったポーランド。19世紀半ばまで鎖国状態に置かれていた日本。日本はしかし、国境を解放するとポーランドとその歴史に関心を持ちはじめます。それ以来、日本人はポーランド人に対して、大きな親愛感とともに接してきました。ポーランド人も日本人に対して、同様の感情を抱いてきました。それは政治的な理由からでもあり、同時に感情的な理由からでもありました。私たちは、伝統の尊重・文化的アイデンティティの擁護・戦いと勇気・家族との関係といった、ある種の普遍的価値を同じように理解していたのです。ポーランド人は、個人主義を持たず、社会に良かれと献身的に行動する日本人を讃美してきました。
ポーランドについて書かれた日本の書物に、東海散士の『佳人之奇遇』(1885)があります。そこには、ポーランド民族の悲劇・三国分割・独立運動についての最初の記述が見出されます。同じような思いから、落合直文は「波蘭懐古」を創作しました。長編詩『騎馬旅行』(1893)を成す一部分です。彼は、福島安正中佐がベルリンからポーランドの国土を通ってウラジオストクまで行った、単騎横断旅行(1892-1893)に感銘を受けて、この作品を書いたのでした。旅行の目的は、ヨーロッパの近代的な軍隊、特に当時日本にとっての脅威であった隣国ロシアの軍隊についての情報を手に入れることでした。日本政府最初の使者であった福島は、独立運動家や元シベリア流刑者などのポーランド人と接触しましたが、それは、長年にわたり分割占領を行うロシアに抗する戦いを経験してきた彼らこそ、この大国についての正確な情報を提供できるはずと考えていたからでした。
19世紀と20世紀の境目に、日本を訪れたポーランド人が日本ついての書物を著しました。そうしたポーランド人の中には、旅行家(カロル・ランツコロンスキ、パヴェウ・サピェハなど)や研究者などがいますが、後者を代表するのが、民族学者ブロニスワフ・ピウスツキと民俗学者、作家ヴァツワフ・シェロシェフスキです。前者は、アイヌ民族の言語と文化に最もよく通暁した人物になりました。後者は、日本について回想記や短篇小説に記しました。ポーランドでは日本文学の(日本語以外からの)重訳、日本の歴史・文化についての論文が刊行されるようになり、ポーランド美術にジャポニズムの流れが生れました。美術分野で特筆すべき役割を果たしたのが、日本美術愛好家・普及家・収集家であったフェリクス・ヤシェンスキ(「マンガ」)です。ポーランド人の日本への関心が著しく高揚したのは、日露戦争(1904-1905)期でした。ロシアを倒して独立を取り戻すという期待が生れたのが、そのときだったからです。民族連盟とポーランド社会党の代表は、そこで、日本政府代表と非公式の連絡を取りました。ロマン・ドモフスキとユゼフ・ピウスツキは、会談のために東京に赴きました。最終的に、幅広い分野での協力関係には至りませんでしたが、当時ポーランドのうちに生れた日本への親愛感は、戦争中も途切れることなく、今日まで続いています。
1919 – 1941 – 1957
第一次世界大戦終結後の1919年3月、日本は独立ポーランドを承認しました。すなわち、両国正式な関係の始まりです。
1920年に通商条約が署名され、軍事協力が締結されました。日本赤十字は約800名のシベリア孤児の帰還を援助しました。ポーランドの日本への親愛感を証し立てているのは、日露戦争中の功績に対して、50名以上の日本軍将校に軍功勲章が授与されたことです。1930年には、昭和天皇(裕仁)の弟君である高松宮親王・同妃殿下が非公式にポーランドを訪問されました。両国文化へのお互いの関心が大きく高まりました。1919年にはすでに、ワルシャワ大学で日本語コースが開かれていました。ポーランドと日本両国に友好協会が設立され、文学作品の翻訳や両国文化に関連する出版物が刊行されていました。
1930年代になると、国際情勢の変化に伴い、両国関係はさらに活発になりました。特に暗号研究とソ連・ドイツに対する諜報活動の分野での軍事協力が発展しました。それは1945年まで、すなわち1941年10月に両国国交が中絶、大使館の廃止後も、さらにはポーランドが対日戦争を布告した(1941年12月11日)後までも継続したのです。特に、杉原千畝領事とレシェク・ダシュキェヴィチ中尉はカウナス〔リトアニア〕)とケーニヒスベルク(当時ドイツ;現ロシア〔カリーニングラート〕)で、小野寺信中将とミハウ・リビコフスキ少佐はストックホルムで、協力活動を行いました。杉原によって発行された旅券とウラジオストク、敦賀での日本人の人道的支援、さらには、駐日ポーランド共和国大使タデウシュ・ロメルの活躍により、2000-3000以上のポーランド在住ユダヤ人が、己れに宣告されていた死を免れたのです。
ポーランド人宣教師、特にフランシスコ会の修道士は、戦争中も日本での活動を続けていました。その布教を開始したのはマキシミリアン・コルベ神父、彼は1930年にゼノ(ゼノン・ジェブロフスキ)修道士とともに長崎に到着しました。ゼノは、孤児・老人・貧者・身体障碍者を献身的に助けながら、生涯の最後まで日本で活動しました。今日に至るも日本では、ポーランド出身の宣教師や尼僧が多数、積極的に奉仕しています。
1957年以後
第二次世界大戦後、国際関係の東西両極構造ができあがった結果、ポーランドと日本はそれぞれの同盟国であるソ連とアメリカ合衆国に従って、敵対陣営に属することになりました。この境界線をさらに深く刻み込んだのは、「冷戦」時代に東と西を分けた鉄のカーテンでした。それ故に、ポーランドとチェコスロヴァキアとソ連は、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約に署名しなかったのです。
1957年2月8日の「日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定」(日波復交協定)は5月18日に発効して、両国の戦争状態を終結させ、政治・経済・文化における公式の関係を復活させました。とはいえ、政治体制の相違から、相互協力は緩慢にしか発展しませんでした。1970年代に経済協力が増大し、その後も両国関係の主軸となりました。1980年代初頭にポーランド労働者が自由化を求めて一斉に声を挙げ、それが民主化プロセスを発動させ、最終的に戦後の世界秩序を変えるような影響を及ぼすと、日本では「連帯」運動とその指導者レフ・ワレサへの親愛感を引き起こしました。しかし、1981年12月にポーランドで戒厳令が施行されると、両国関係はまたしても制限されました。それが徐々に改善したのは1985年以降のことで、例えば安倍晋太郎外務大臣がポーランドを訪問したことはその証左です。1987年には国家評議会議長ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが日本を訪問しました。両国関係が著しく改善したのは、ポーランド史の新時代を開いた1989年6月選挙より後です。首相では海部俊樹(1990)、小泉純一郎(2003)、安倍晋三(2013)、外務大臣では池田行彦(1997)、麻生太郎(2007)、河野太郎(2018)がポーランドを公式訪問したのが、その証左です。とりわけ重要な出来事は、2002年7月に天皇皇后両陛下がポーランドを訪問されたことです。その他、皇族では高円宮・妃殿下ご夫妻がポーランドをご訪問になり(1994)、妃殿下は2015年にも訪れておられます。日本を訪れたポーランド政界の代表には、大統領ではレフ・ワレサ(1994)、アレクサンデル・クファシニェフスキ(1998)、レフ・カチンスキ(2008)、ブロニスワフ・コモロフスキ(2015)、首相ではヤン・クシシュトフ・ビェレツキ(1991)、イェジ・ブゼク(1999)、マレク・ベルカ(2005)、外務大臣ではクシシュトフ・スクビシェフスキ(1994)、ブロニスワフ・ゲレメク(2000)、ステファン・メレル(2006)、ラドスワフ・シコルスキ(2008)、ヴィトルト・ヴァシュチコフスキ(2017)などがいます。
経済・学術・文化交流も順調に発展しています。ポーランドと日本の芸術家はお互いに刺戟と影響を与えています。ポーランドの古典的映画・演劇、ポーランドのポスターやグラフィックアート、ポーランド音楽は日本でとても人気があります。ポーランドでは、日本の古典・前衛劇団、日本のポスターやグラフィックアート、音楽や映画(アニメを含む)が大歓迎されています。ポーランドの日本学者と日本のポーランド学者の功績により、ポーランドと日本の読者の手許に両国文化に関する価値ある研究や文学の専門家による直訳が数多く、届けられています。
友好的な関係が両国を昔から結び付けてきたこと、多くの分野における協力が発展していることを示す証拠は数多くあります。それあればこそ、私たちはお互いを隔てる距離と文化的差異にもかかわらず、身近な存在なのです。国交樹立100周年記念行事がそのさらなる証左となるだろうことに、疑問の余地はありません。