5月31日、駐日ポーランド共和国大使館にて、ポーランドの戦時遺失品であり、東京で2022年1月に見つかった絵画『聖母子』のポーランドへの引き渡し式が行われました。
この式には、パヴェウ・ミレフスキ駐日ポーランド共和国大使、ポーランド文化・国家遺産省文化財返還部エルジュビエタ・ロゴフスカ部長、株式会社毎日オークションを代表して小野山様、モワセ様そしてポーランド広報文化センター ウルシュラ・オスミツカ所長が参加しました。
歴史上初めて、戦争によるポーランドの損失品が極東・日本で発見されました。2022年1月に東京のオークションに出品された『聖母子』は、ポーランド共和国文化・国家遺産省と日本のオークション・ハウス〈株式会社毎日オークション〉の間で締結された合意に基づき、ポーランドに帰国します。
2022年1月、ポーランド共和国文化・国家遺産省文化財登録局職員が、東京のオークションでアレッサンドロ・トゥルキ(1578-1649)作とされる絵画『聖母子』を発見し、その構図と寸法から、第二次世界大戦中にプシェヴォルスク(ポーランド南部)にあるルボミルスキ家コレクションから略奪された絵画のことであると推測されました。ポーランド共和国文化・国家遺産省とオークション・ハウス〈株式会社毎日オークション〉は、絵画の出所とその正体の特定を目的に本質的な対話を始めました。ポーランドの専門家が調査を実施し、次に、返還申請書と絵画の正体を裏付ける分析が日本側に伝達されました。絵画の歴史とその運命を把握した〈株式会社毎日オークション〉は絵画の所有者との合意により、いかなる経費もなしに絵画をポーランドに引き渡すことに決めました。強調すべき事実は、この芸術品に関する歴史的真実の良心的な特定を目的にポーランド文化担当部局が着手した返還事業に対して深い理解を表した、オークション・ハウスの極めてプロフェッショナルな姿勢です。最上級の評価に値するのは、〈株式会社毎日オークション〉による絵画のポーランドへの引き渡しという名誉ある行いです。
東京で絵画『聖母子』が発見されたという最初の情報を入手したときから、ポーランド共和国文化・国家遺産省文化財登録局職員は外部専門家たち――美術史家と絵画修復家――の助力により調査を実施し、絵画が1940年にドイツ軍によって略奪されたということが示されました。その証明になるのが、例えば強奪の主要な証拠の一つである、占領軍作成による、ポーランドの収集品から強奪された美術品目録„Sichergestellte Kunstwerke im Generalgouvernement”であり、その中に登録された作品総数521のうち本絵画には145という番号が付されています。これらの作品の多数は、ドイツに運び出されました。遺産の大部分は、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの『白貂を抱く貴婦人』、レンブラントの『善きサマリア人のいる風景』のように、幸いにも終戦直後に返還運動の一環としてポーランドに戻りましたが、目録中に分類されている、ラファエロの『青年の肖像』を含む多くの遺産は発見されず、ポーランド共和国文化・国家遺産省が記録している戦争による損失品データベースに載っています。
ポーランドの収集品の中に『聖母子』が存在することを裏付ける、知られている最初の文書記録は、『プシェヴォルスクのヘンリク・ルボミルスキ邸にある油絵・版画・円形浮彫』(1823)です。この文書には、絵画の以前の所有者として、傑出した政治家・美術史家・収集家で、ポーランド最初の美術館の一つをヴィラヌフ宮殿に創設したスタニスワフ・コストカ・ポトツキ(1755-1821)の名が挙げられています。S・K・ポトツキはこの絵画をおそらく、1772年と1797年の間に数多く訪れたイタリアへのいずれかの旅行中に購入したのでしょう。第二次世界大戦勃発の時点で作品はプシェヴォルスクのルボミルスキ家の邸宅に存在し、同地はドイツ占領下に置かれました。プシェヴォルスクの収集品の根幹を成すのは、絵画ギャラリー、彫刻コレクション、甲冑庫、そして家族の古文書でした。第二次世界大戦中に絵画はドイツに運び出され、跡形もなく消えました。1990年代終りに、ニューヨークのオークションでアレッサンドロ・トゥルキ作絵画として売却されましたが、こうした作家名の特定に裏付けはありませんでした。