一月蜂起は、三国分割期における最も長く続いた独立闘争です。戦闘にはすべての社会層が加わり、当時の国際関係に強い影響を与え、ポーランド民族史における社会的・思想的転換点となりました。
蜂起は1863年1月22日から1864年春まで続き、ポーランド王国、リトアニア、ベラルーシ、さらにはウクライナに波及していきました。
その遠因はロシア当局によるポーランド民族弾圧の強化です――ワルシャワでの愛国的・宗教的街頭デモ(例えば、1830-1831年の十一月蜂起300周年集会)が暴力的に鎮圧させられていました。蜂起を社会変革につなげようとする過激な民主主義者の陣営「赤党」と、ただちに蜂起を起こすことに反対し組織的労働と合法的活動による当局の退陣を支持する「白党」の二つの陣営が生まれました。
ロシア当局が、前者の分断を目的として徴兵を再開し、まず「赤党」員を徴兵したために、十分な準備が整わないうちに蜂起が開始されることになりました。1月22日、「赤党」の臨時国民政府がポーランド・リトアニア・ウクライナ国民に闘争を呼びかけるマニフェストと農地解放令を発表しました。農民を味方につけるためです。
蜂起軍の武装は貧しく、軍事訓練も不十分なパルチザンでした。1863年2月から1年間にわたって多くの戦闘を行いました。蜂起兵の数は、4,5千人から3万人まで変動しましたが、蜂起全期間を通して、約20万人の志願兵が加わったとされています。
蜂起が最も激化したのは、「白党」が蜂起に参加し、やがて蜂起軍の主導権を握る1863年夏です。彼らは西側大国の介入に希望をつなぎましたが、イギリス、フランス、オーストリアによるそれは、ロシアの対ポーランド政策の変化と停戦を求める外交交渉に限定されたものでした。ロシア政府はその申し出を拒絶し、蜂起軍とのより過激な闘争と一般市民へのテロ行為を始めます。
1863年秋に蜂起は勢いを失いました。翌64年3月にはロシア政府が蜂起側の農地解放令を追認して農地解放を発表し、農民の動員ができなくなりました。8月には、最後の指揮官ロムアルト・トラウグットが処刑され、事実上蜂起は終わりました。
推定によると、1万数千~3万名が蜂起で生命を落とし、7千名以上が捕虜になりました。蜂起に加わったために処刑された者は669名、およそ4万人がシベリアに流刑され、強制的にロシア軍に編入させられた者は数千人に上りました。蜂起への参加が証明された小貴族(シュラフタ)の財産は没収されました。旧ポーランド領では、徹底的なロシア化が進められました。
一月蜂起は軍事的には敗北でしたが、ポーランド人の民族意識を強め、1918年までの政治的プログラムの形成に大きな影響を与えました。
出典: „Mały słownik historii Polski”