クシシュトフ・コメダ

Krzysztof Komeda

ピアニスト、作曲家。本名Krzysztof Trzcinski。1931年4月27日ポズナニ生まれ。1969年4月23日没。死後半世紀近く経つ現在もなお、ポーランド・ジャズ史上最高の作曲家として認識されている伝説的なジャズ・ミュージシャン。

7歳でピアノをはじめ、8歳でポズナニの芸術学校に入学するが、第二次世界大戦と両親の意向が彼の音楽家への道を閉ざし、医者を目指して医学を学ぶようになる。医者になった後オストルフ・ヴィエルコポルスキのギムナジウムで同級生だったベーシストWitold Kurajewskiに出会ったことがきっかけで、Jerzy Duduś Matuszkiewiczら多くの同世代のミュージシャンとの交流がはじまる。

1950年代前半にMatuszkiewiczのMelomaniなど複数のバンドに加入しジャズ・ピアニストとしてのキャリアがスタートする。1956年には第一回Sopot Jazz Festivalにて、サックス奏者Jan Ptaszyn Wróblewskiやヴァイブラフォン奏者Jerzy Milianを擁した自身のセクステットで出演。当時はまだ詩人だった映画監督イェジ・スコリモフスキとはこの時ソポトで出会い、後に終生の親友となった。

ジャズ・ミュージシャンとしてだけでなく偉大かつ世界的な映画音楽家として知られるコメダの初の映画音楽はロマン・ポランスキ監督の短編「タンスと二人の男」。二人のコラボレーションは、ポランスキのハリウッド・デビュー作でコメダの最後の映画音楽が聴ける『ローズマリーの赤ちゃん』まで続くことになる。『水の中のナイフ』の音楽制作もコメダである。また『夜の終りに』『出発』などスコリモフスキやアンジェイ・ヴァイダ(ワイダ)らの作品にも音楽を提供した。1960年以降毎年続くこととなった北欧ツアーではコペンハーゲンの映画監督Henning Carlsenと出会い、『Kult』や『Kattorna』など彼の作品でも音楽を提供する。コメダはその短い生涯の間に計80以上にのぼる膨大な数の映画・演劇用の音楽を制作した。

1963年にコペンハーゲンでデンマーク人トランぺッターAllan Botschinskyらと『Ballet Etudes』を録音。1965年にはトランペット奏者Tomasz Stańko、アルト・サックス奏者Zbigniew Namysłowskiを擁したクインテットで『Astigmatic』を録音、リリースする。同作はジャズ雑誌Jazz Forumのポーランド・ジャズ・オール・タイム・ベスト・アンケートで大差の1位に輝くなど、国内外で現在も欧州ジャズ史屈指の名盤として高く評価されている。また同クインテットでCzesław MiłoszやWisława Szymborskaらポーランドの偉大な詩人の作品の朗読とジャズを融合させた『Maine Susse Europaische Haimat』も録音し、1967年にドイツでリリースされた。実質的なジャズ・アルバムのリリースは以上に留まり、ジャズ・アーティストとしては非常に寡作だった。

1968年にロサンゼルスで『ローズマリーの赤ちゃん』他計2本の映画音楽の制作に携わった後、事故が元で脳死状態に陥る。意識が戻らぬままワルシャワに移送され1969年に帰らぬ人となった。

かつてのバンドメンバーTomasz StańkoやMarcin Wasilewski、Robert Majewski、Adam Pierończykら若い世代のジャズ・ミュージシャンによるコメダの作品のカヴァーアルバムは90年代以降毎年のように発表され続けており、室内楽やオーケストラによる演奏も盛んである。彼の音楽はショパンやシマノフスキ、ルトスワフスキらクラシックの作曲家に並ぶ敬意と評価を集め、現在もなお生き続けている。

 

 

アダム・ミツキェーヴィチ

Adam Mickiewicz

ポーランドを代表するロマン派詩人、思想家、政治活動家。1798年12月24日ノヴォグルデク(現ベラルーシ共和国、元リトアニア大公国)生まれ。1855年11月26日イスタンブール没。

ミツキェーヴィチはリトアニアのノヴォグルデクで誕生し、生涯を通じて自らの祖国をリトアニアであるとしていた。しかし母語はポーランド語でありポーランド語で執筆活動を行った。ヴィルノ大学で学問を修める。ヴィルノ大学の学生らを中心にした愛国的活動団体である秘密結社フィロマト会の発起人の一人であり、熱心な活動家でもあったため、友人らとともに一時逮捕、拘留された(1823~24年)。解放後はロシア国内で過ごし、ロシア人インテリらのグループと交わった。1829年にはヨーロッパ諸国への旅に出、ドイツ、スイス、イタリアを巡り、ベルリンではヘーゲルの講義を聴いている。1830年ポーランドで発生した11月蜂起を受けて帰国を企図するも失敗に終わる。1832年よりパリに住む。うち1839年の1年間はローザンヌでラテン文学の講義を行った。

パリでは恒久的収入も無く苦しい生活が続いた。1834年ツェリーナ・シマノフスカと結婚、彼女との間に6人の子どもをもうけた。1840年からはコレージュ・ド・フランスのスラヴ文学講義を受け持った。1841年にはトヴィアンスキの神秘思想(トヴィアニズム)に傾倒し始めるが、その政治的・社会的立場なども理由の一つとなり、1844年にはコレージュ・ド・フランスを去っている。「諸国民の春」の動きを受けて、ミツキェーヴィチは1848年ローマを訪れ、ポーランド人軍団を結成した。また1855年にはイスタンブールを訪れクリミア戦争でロシアに相対するポーランド人軍団およびユダヤ人軍団の組織を試みたが、志半ばで突然の病により亡くなった。

最も重要な作品には『バラードとロマンス』(1822年)、『クリミア・ソネット』(1826年)、『コンラット・ヴァレンロット』(1828年)、『父祖の祭』(1823~33年)、『パン・タデウシュ』(1834年)などがある。

ミツキェーヴィチの作品は当時から今日に至るまでポーランドの文学・文化に多大な影響を与えている。他の芸術へのインスピレーションとなったものも多く、音楽に関して言えばショパン、モニューシュコ、シマノフスキ、パデレフスキ、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフといった作曲家らが彼の詩をもとにした歌曲などを書いている。アンジェイ・ヴァイダ監督の『パン・タデウシュ物語』(1999年)は日本でも公開された。

 

邦訳作品:

  ・『パン・タデウシュ 上・下』(工藤幸雄訳、講談社文芸文庫、1999年)

≪ポーランド文学古典叢書≫より

                ・『ソネット集』(久山宏一訳、未知谷、2013年)<br />

                ・『バラードとロマンス』(関口時正訳、未知谷、2014年)<br />

                ※文学叢書はポーランド広報文化センターの助成により刊行されています。

 

アグニエシュカ・ホランド

Agnieszka Holland

 

1948年ワルシャワ生まれ。1971年にプラハ芸術アカデミーを卒業後、ポーランドに戻り映画業界に入る。クシシュトフ・ザヌーシの助監督になり、アンジェイ・ワイダから指導を受けた。初監督作品Provincial Actors(78)は道徳的不安の映画運動を代表する作品のひとつで1980年のカンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。1981年にフランスへと移住。

    ポーランドを去ってから、Washington Square(97)やアカデミー脚本賞にノミネートされた(ゴールデン・グローブ外国映画賞受賞、NY批評家協会賞受賞)『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』(90)など、自己実現を求めて困難な状況から逃れようとする人々の物語を作品にしてきた。また、友人クシシュトフ・キェシロフスキのトリコロール三部作の一作目『トリコロール/青の愛』(93)の共同脚本も手掛けている。その後の作品として、『オリヴィエオリヴィエ』(92)、『秘密の花園』(93)、『太陽と月に背いて』(95)、『敬愛なるベートーヴェン』(06)など。2008年にはニューヨーク近代美術館(MOMA)でホランドの代表作が数々上映された。他にも数々の映画監督に脚本を提供しており、またテレビ作品の監督としてもエミー賞最優秀ドラマシリーズ部門にノミネートされるなど活躍している。

・『オリヴィエ オリヴィエ』 (1992)

                ・『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』 (1990)

                ・『ワルシャワの悲劇/神父暗殺』 (1988)

                ・Angry Harvest(1985)

※クシシュトフ・キェシロフスキーとクシシュトフ・ピエシェヴィッチ

                ・『トリコロール/青の愛』 (1993)

                ・『トリコロール/白の愛』 (1994)

・『アンナ』

                  インディペンデント・スピリット賞、脚本賞 (1987)

                ・Angry Harvest

                  アカデミー外国映画賞ノミネート (1985)

                  Prize of the Ecumenical Jury-Special Mention モントリオール世界映画祭(1985)<br />

                ・『敬愛なるベートーヴェン』

                  Polish Film Awards, nominee for Best European Film (2007)

                  ゴヤ賞、ヨーロッパ映画賞ノミネート(2007)

                  サンセバスチャン国際映画祭CEC最優秀賞 (2006)

                ・『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』

                  英国アカデミー外国語映画賞ノミネート (1993)

                  アカデミー脚色賞ノミネート (1992)

                   ゴールデン・グローブ外国映画賞 (1992)

                   NY批評家協会外国映画賞 (1991)

                ・Fever

                  グディニア映画祭金賞

                  銀熊賞–ベルリン国際映画祭 (1981)

                ・Julia Walking Home

                  ポーランド映画祭最優秀監督賞ノミネート (2004)

                  メソッド・フェスト・インディペンデント映画祭監督賞 (2003)

                ・Provincial Actors

                  カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞(1980)

                ・A Lonely Woman

                  グディニア国際映画祭特別審査員賞 (1990)

                ・Treme (パイロット版)

                  エミー賞最優秀ドラマシリーズ部門ノミネート(2010)

 

 

アンジェイ・ムンク

Andrzej Munk

アンジェイ・ムンク Andrzej Munk

                 1921年10月16日、クラクフ生まれ。第二次大戦勃発の数ヶ月前にギムナジウムを卒業。ナチスによる占領期にワルシャワへ移住したが、ユダヤ人の血を受け継いでいたために、偽名を用いて建設作業員として生計を立てることを余儀なくされる。1944年のワルシャワ蜂起に参加後、クラクフやスキーリーゾート地ザコパネを渡り歩く。後者では、カスプロヴィ山でロープウェイの駅員を務めた。

                 戦後ワルシャワへ戻り、ワルシャワ工科大学で建築を学ぶが病弱のため中退。続いてワルシャワ大学で法学を専攻。その後、ウッチ映画大学に入学。1951年に同校を卒業し、「ポーランド映画新聞」(映画館で本編開始前に上映される、約10分のニューズリール)の撮影を手がけ始め、同時期に自ら監督を務めた短編劇映画や記録映画を数本完成させた。1948年にポーランド統一労働者党に入党したが、1952年に「とがむべき振る舞い」を理由に除名されている。

                 ロケーション撮影を用いて半ドキュメンタリー的に山岳救助隊の活躍を描いた中編『白い決死隊』(55)で、ヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞した。この作品は実際に起こった事件に基づいており、その事件に関わった人々(非職業俳優)と職業俳優を混ぜて起用し、彼らに事件を再現させている。

                 1956年にイエジー・ステファン・スタヴィンスキのオリジナル脚本に基づく長編第一作『鉄路の男』を発表。翌年よりウッチ映画大学で教鞭を執り始める。その後もスタヴィンスキと組んで長編映画『エロイカ』(57)、『不運』(60)を監督。1961年9月20日、長編第四作『パサジェルカ』(63)の撮影地の一つであるアウシュヴィッツ強制収容所に車で向かう途中、ウッチ県ウォヴィッチ近郊でトラックと正面衝突し死去。享年40。

                 死後(1965年)、ウッチ映画大学でアンジェイ・ムンク映画賞が創設された。これは、その年の最も優れた監督デビュー作に毎年与えられる賞である。

                鉄路の男 Człowiek na torze  1956年/ 89分/デジタル

列車事故を防ごうとして命を落とした退職鉄道技師の物語をリアリズム・タッチで描いたムンクの意欲作。社会主義政権の自由化進展をうながした1956年の政変〈十月の春〉をとりあげた最初の映画と言われている。当時の若手映画人が崇拝していた「羅生門」や「市民ケーン」にならい複雑な物語構成、パン・フォーカスによる映像等、監督の作家的成熟がかいまみられる一編。

エロイカ Eroica 1957年/ 87分/デジタル

わずか5本の長編作品を残し40歳の若さで事故死したアンジェイ・ムンクは硬質で無垢な芸術表現、残酷なまでの知的リアリズム、人間に対する深い洞察をもつ作風で、現在もなお色あせることなく多くの作家に影響を与えている。ワルシャワ蜂起の内実と平和な収容所でおこる悲劇を2部構成で描いた本作。戦争を主題に扱うことの多い〈ポーランド派〉の代表的な1本である。

不運 Zezowate szczęście 1960年/ 92分/デジタル

1930年代から1950年代のポーランドを舞台に日和見主義者の青年が語る人生悲話。6回のフラッシュバックにおいて描かれるのは共産主義やファシズム、戦争、抑圧された幼年時代の影響で歴史の犠牲となってしまった悲運な個人の肖像である。ポーランドの作家に時折りみられるロマン主義的傾向を辛辣に風刺した一作。

パサジェルカ Pasażerka 1963年/ 61分/ 35mm

アウシュヴィッツ収容所の女看守という特殊な状況下のヒロインを描いたムンクの遺作。作品の大部分を撮り終えた監督が事故死し、残されたフィルムをもとにまとめあげられた。結果、冒頭とエンディングはスチルのみのモンタージュ、収容所の場面はシネマスコープのフィルムという大胆な構成となり緊張感に満ちた映画的効果を生んだ異色の傑作。カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞。

 

 

アンジェイ・ワイダ

Andrzej Wajda

 

 1926年3月6日、スヴァウキ県(現在はポドラシェ県)スヴァウキ生まれ。母親は学校教師、父親は陸軍将 校。父は1942年に、ソ連の内務人民委員部(NKVD)によりほかのポーランド軍将校や警官、国境警備員、聖職者らと共に銃殺された。この事件は後に現 場近くの地名を採って「カティンの森事件」あるいは「カティンの森の虐殺」として知られるようになり、近年ワイダ自身が『カティンの森』(07)として映 画化したことは周知の通り。同1942年、十代半ばにしてワイダは国内軍兵士となり、反ナチ・レジスタンス活動に従事する。

 戦後、画家を目指してクラクフの芸術アカデミーで学ぶ。続いてウッチ映画大学に入学。アレクサンデル・フォルト監督作『バルスカ通りの五人組』(54、 未)の助監督を務めた後、ナチス占領下のポーランドを舞台に若者たちによる反ナチ闘争および(共産党系の)人民軍への加担を描いた『世代』(54)で長編 監督デビュー。 この作品には後のワイダ作品にも起用されるタデウシュ・ウォムニツキ、ズビグニェフ・ツィブルスキ、タデウシュ・ヤンチャルといった当時 の若手俳優が早くも顔を揃えている。また、ロマン・ポランスキーも重要な役柄で出演した。続いて監督した『地下水道』(56)と『灰とダイヤモンド』 (58)で世界的な注目を浴びる。

 以後1960年代を通じ、超現実的な象徴性に満ちた『ロトナ』(59、未)、若者世代の生態描写を試みた『夜の終りに』(60)、ステファン・ジェロム スキの原作に基づく歴史大作『灰』(65、Vのみ)、『灰とダイヤモンド』の原作者イエジー・アンジェイェフスキの前衛的な小説に基づく『天国の門』 (68、未)といった野心作を発表。  

 1967年に気に入りの俳優ツィブルスキが列車事故で死去したのをきっかけに、映画製作の舞台裏を描いた個人的で内省的なワイダ版『8 1/2』(フェデリコ・フェリーニ、63)ともいうべき『すべて売り物』(68、Vのみ)を監督。ヤヌシュ・グウォヴァツキの原作・脚本に基づく諷刺劇 『蝿取り紙』(69、Vのみ)を経て、1970年以後はホロコーストを生き延びた作家を主人公としたタデウシュ・ボロフスキの小説に基づく『戦いのあとの 風景』(70、Vのみ)、一人の女性をめぐって張り合うやもめの兄と病弱な弟の姿を描いたヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチの小説に基づくテレビ映画『白 樺の林』(70)、象徴性に満ちた描写で詩人と農民娘の婚礼を描いたスタニスワフ・ヴィスピャンスキの戯曲に基づく『婚礼』(73)、19世紀ポーランド における資本主義の発生を描いたヴワディスワフ・スタニスワフ・レイモントの小説に基づく『約束の土地』(74)、『白樺の林』と同じくイヴァシュキェ ヴィッチの小説を原作とした『ヴィルコの娘たち』(79)といった作品を発表、いずれも高い評価を受けた。

 アレクサンドル・シチボル・ルィルスキのオリジナル脚本に基づき、スターリン主義時代と現代を交差させながら、1950年代に労働英雄に祭り上げられた 一人の男の盛衰を通してポーランド現代史を貫く政治の闇を突いた『大理石の男』(76)は、カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞した。1970年 代末期には、英国人俳優ジョン・ギールグッドを主演に迎えた野心作『ザ・コンダクター』(80、Vのみ)を監督。

 1980年代に入り、当時勃興していた 独立自主管理労働組合&ldquo;連帯&rdquo;による民主化運動をいち早く作劇に取り込み、同運動を先導したレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)を自身として特別出演させた、 『大理石の男』の続編あるいは姉妹編にあたる実験的な大作『鉄の男』(81)を発表。この作品はカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したが、&ldquo;連帯&rdquo;へ の関与が原因となってワイダの製作プロダクションはポーランド政府により解散に追い込まれた。また、1978年より務めていた映画人協会会長も辞任。

 以後はフランスとの合作映画が増え、出演者にも西欧の俳優が連続的に起用されるようになる。たとえばフランス人俳優ジェラール・ドパルデュー主演の仏= ポーランド合作映画『ダントン』(83)、ドイツ人女優ハンナ・シグラ主演の仏=ポーランド合作映画『ドイツの恋』(83)、ランベール・ウィルソンやイ ザベル・ユペールらフランス人俳優を大々的に起用したフランス映画『悪霊』(88)といった作品である。そのほか、タデウシュ・コンヴィツキが原作と脚本 を担当した純粋なポーランド映画『愛の記録』(86)も発表した。1981年から1989年にかけ、レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)率いる&ldquo;連帯&rdquo;顧問会議 の一員となる。

 東欧革命によるポーランド共和国誕生以後は、実話に基づくポーランド=独合作映画『コルチャック先生』(90)、ポーランド=英=独=仏合作映画『鷲の 指輪』(92)、アンジェイェフスキの小説に基づくポーランド=独=仏合作映画『聖週間』(95)、アダム・ミツキェヴィチの叙事詩に基づくポーランド= 仏合作映画『パン・タデウシュ物語』(99)といった作品を発表。アレクサンデル・フレドロの戯曲に基づく喜劇『仕返し』(02、未)には、ロマン・ポラン スキーが主演した。現時点における最新作は、『大理石の男』『鉄の男』の主演女優クルィスティナ・ヤンダを久々に主演に迎えたイヴァシュキェヴィッチの小 説に基づくポーランド映画『菖蒲』(09)。現在、2013年公開予定でレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)の伝記映画『ヴァウェンサ』を製作中。1989年か ら1991年にかけて上院議員を、1992年から1994年にかけては大統領(ヴァウェンサ)直属の文化評議会議長を務めた。

 また、1959年にマイケル・V・ガッツォ『帽子いっぱいの雨』で初めて舞台演出を手がけた。以後、シェイクスピア『ハムレット』、ウィリアム・ギブソ ン『二人のシーソー』などを1960年代前半に演出。1970年代以後もドストエフスキー『悪霊』やプシブィシェフスカ『ダントン裁判』など、数多くの舞 台劇を演出。この二作品は後に自身の演出で映画『ダントン』(83)および『悪霊』(88)として結実した。1989年には、日本でドストエフスキーの小 説『白痴』に基づく『ナスターシャ』を演出。『ナスターシャ』には、坂東玉三郎がムイシュキン公爵とナスターシャの一人二役で主演した。さらにこの作品も 1994年に同じ監督・主演コンビで映画化された。

 大の親日家としても知られている。1987年に、第三回京都賞の精神科学・表現芸術部門を受賞。このときの受賞基金を使って1994年、クラクフに「日 本美術・科学技術センター」を設立。1996年には高松宮殿下記念世界文化賞の演劇・映像部門を受賞、神戸映画祭で講演をした。

 また、2002年に映画監督ヴォイチェフ・マルチェフスキと共同でポーランドに映画学校「アンジェイ・ワイダ映画マイスター学校」を創設。2000年にはオスカー特別名誉賞を受賞。2006年にはベルリン国際映画祭で名誉金熊賞を受賞した。

「世代」(1954)

「地下水道」(1956)1957年 カンヌ審査員特別賞

「灰とダイヤモンド」(1958)1959年ヴェニス映画祭 国際批評家連盟賞 1962年デヴィッド・セルズニック賞

「夜の終りに」(1960)

「二十歳の恋」(1962)

「すべて売り物」(1969)

「戦いのあとの風景」(1970)1971年ミラノ ゴールデングローブ賞

「白樺の林」(1970)1971年モスクワ国際映画祭金賞受賞

「婚礼」(1973)

「約束の土地」(1974)1975年ポーランド劇映画祭「金獅子」賞 1975年モスクワ映画祭金賞/1976年アメリカ アカデミー賞ノミネート

「大理石の男」(1976)1978年カンヌ映画祭 批評家連盟賞

「ヴィルコの娘たち」(1979)1980年アメリカ アカデミー賞ノミネート

「鉄の男」(1981)1981年カンヌ国際映画祭 「パルムドール」賞/ 1982年アメリカ アカデミー賞ノミネート

「ダントン」(1982)1982年フランス ルイ・デリュック賞

「ドイツの恋」(1983)

「愛の記録」(1986)

「悪霊」(1987)

「コルチャック先生」(1990)

「鷲の指輪」(1992)

「ナスターシャ」(1994)

「聖週間」(1995)1996年ベルリン 銀熊賞

「パン・タデウシュ物語」(1999)

「仕返し」(2002)

「カティンの森」(2007)2008年アメリカ アカデミー賞ノミネート/2008年ヨーロッパ・フィルム・アカデミー 

「菖蒲」(2009)/第59回ベルリン国際映画祭アルフレード・バウアー賞受賞

「ワレサ――連帯の男」(2013)――2014年春日本公開予定

                2011年3月11日に発 生した東日本大震災に際して、アンジェイ・ワイダは、日本人の被災者に励ましのメッセージを送った。

 

悲観しない日本人を尊敬 悲劇、苦難乗り越え生きよ 日本の友人たちへ。

 

 このたびの苦難の時に当たって、心の底からご同情申し上げます。深く悲しみをともにすると同時に、称賛の思いも強くしています。恐るべき大災害に皆さんが立ち向かう姿をみると、常に日本人に対して抱き続けてきた尊敬の念を新たにします。その姿は、世界中が見習うべき模範です。

 ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」

 私はこう答えるのみです。「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」

 日本の友人たちよ。

 あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。

 それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。

 日本は私にとって大切な国です。日本での仕事や日本への旅で出会い、個人的に知遇を得た多くの人々。ポーランドの古都クラクフに日本美術・技術センターを建設するのに協力しあった仲間たち。天皇、皇后両陛下に同行してクラクフを訪れた皆さんは、日本とその文化が、ポーランドでいかに尊敬の念をもって見られているか、知っているに違いありません。

 2002年7月の、あの忘れられないご訪問は、私たちにとって記念すべき出来事であり、以来、毎年、私たちの日本美術・技術センターでは記念行事を行ってきました。

 日本の皆さんへ。

 私はあなたたちに思いをはせています。この悪夢が早く終わって、繰り返されないよう、心から願っています。この至難の時を、力強く、決意をもって乗り越えられんことを。

 

 ワルシャワより

                 アンジェイ・ワイダ

                (共同通信)

Copyright (C) 2011 http://www.47news.jp/47topics/earthquake/6.html

 

               

        

アンナ・マリア・ヨペック

Anna Maria Jopek

 

ヴォーカリスト、作曲家、作詞家。1970年12月14日ワルシャワ生まれ。ショパン音楽アカデミー卒。何度も来日している伝統の民俗舞踊グループ、マゾフシェ舞踊団の元テノールの父とダンサーの母が両親。写真家、音楽プロデューサーのMarcin Kydryńskiは夫。

ニューヨークのマンハッタン音楽院に留学し卒業後、1997年にシングル曲「Ale jestem」でヨーロッパのポップ・ソング・コンテストEurovisionのポーランド代表に選出されアーティスト・デビュー。この曲が収録されたデビューアルバム『Ale jestem』はゴールド・ディスクを獲得した。次作『Szeptem』よりピアニストAndrzej Jagodzińki、Leszek Możdżer、Krzysztof Herdzinをはじめとしたジャズ・ミュージシャンとのレコーディングを本格的に開始する。2002年にはジャズの巨匠でギタリスト、作曲家のPat Methenyとの共作『Upojenie』をリリース。世界中に彼女の名が知られることになる。以後パーカッション奏者Mino Cinelu、ベーシストRichard Bonaをはじめとした世界トップクラスのジャズ・ミュージシャンをゲストに迎えたアルバムを次々と発表している。そのディスコグラフィーは17枚を数え、日本のジャズ・ピアニスト小曽根真や篠笛奏者・福原友裕を迎え、日本の伝統音楽の要素を採り入れた2011年の『Haiku』がプラチナディスクに輝いたのをはじめ、これまで10度ゴールドディスク、7度のプラチナディスクを獲得している。ポーランドを代表するヒット・メイカーである。2015年にポーランド復興勲章を受章。

初来日は2005年の愛知万博(2005年日本国際博覧会「愛・地球博」)で、以後数度来日を重ねている。2014年には「V4+日本」交流親善大使に任命された。2015年には第14回東京JAZZでメイン・アクターのひとりとして演奏した。

http://anna-maria-jopek.com/

 

 

バーシャ(バーシア)

Basia

シンガー・ソングライター。本名Basia Trzetrzelewska。1954年9月30日ヤヴォジュノ生まれ。

1970年代半ばに渡米・渡英し、ロンドンを拠点に音楽活動をはじめる。1982年にヴォーカリストのMark Reillyにより結成されたポップ・ユニットMatt Biancoに参加しリリースされたファースト・アルバム『Whose Side Are You On?』がイギリス・チャートでヒットし注目を浴びる。

Matt Bianco脱退後の1987年にリリースした初リーダー作『Time And Tide』、1990年のセカンド・アルバム『London Warsaw New York』がミリオン・セールスを記録。アメリカのビルボード社のコンテンポラリー・ジャズ・アルバム・チャートでも共に1位を獲得した。1994年のサード・アルバム『Sweetest Illusion』からのシングル・カット「Drunk on Love」はビルボード・クラブ・プレイ・チャートで1位に輝いた。2004年にはキーボード奏者Danny Whiteと共にMatt Biancoに一時復帰し『Matt&rsquo;s Mood』をリリースした。

             http://www.basiasongs.com/Home.html