14.10.2021 ポーランド関連コラム

画家 ヤン・マテイコ

これはアダム・ミツキェヴィチ・インスティチュート「Culture.pl」の記事の日本語訳です。
著作権により絵画を転載することができないため、マテイコの作品は元の記事をご参照ください。

1848年6月24日―1893年11月1日

ポーランド絵画における歴史主義の潮流の最も偉大な代表者、生涯をクラクフですごした画家、素描家。1838年クラクフ生まれ、1893年同地で死去。

マテイコは、ポーランド美術史上最も高い評価を受けている画家の一人で、歴史絵画の民族派の創始者の一人です。同派は、1772~1795年の第一~第三次三国分割の結果、政治的主権を奪われた国家において特別の役割を果たすことになりました。ポーランド共和国の昔日の栄光とその戦いへの称賛を描くことで、マテイコは、ポーランド国民の心と頭を形成し、独立した祖国復興への確信を蘇らせようと切望しました。歴史的絵画に極めて高い地位を与えた最初の一人であり、それによって社会大衆を魅惑し、国際舞台においてポーランド美術の独自の性格と高い芸術的水準を宣言し、それによってパリ、ウィーン、ベルリンでの展覧会で最高賞を獲得しました。多くの権威あるアカデミーと美術研究所の会員として、19世紀後半の最も偉大なヨーロッパ画家の一人に連なりました。

画業のはじまり

画家マテイコの父はチェコからの移住者(1807年ごろ、ポーランドに居を定める)、母はポーランド化したドイツ人家庭の出でしたが、クラクフのマテイコ家ではポーランドの愛国的気風が満ち、独立の理想が生きていました――ヤンの二人の兄は1848年革命(「諸国民の春」)時にハンガリーで戦いました。将来の画家の想像力と歴史への関心に本質的な影響を及ぼしたのは、歴史初歩助教授でヤギェロン図書館職員だった長兄のフランチシェク・マテイコです。郷里の街の雰囲気もまた、影響大でした――その中世に起源を有する遺跡、民族の聖地であるヴァヴェル城(そこには、王宮、そして大聖堂にはポーランド統治者たちの墓所がありました)と民族的伝統を尊重するうえでの(他の分割占領地区と比べて)比較的大きかった自由です。

1852年にクラクフ美術大学で勉学を始めたとき、マテイコにはすでに、関心の明確に定まった方向性がありました。古年代記作品の研究を通して、また素描家・記録者として、鉛筆の素描でポーランド王・公爵の肖像、クラクフの建築遺跡、彫刻、美術的工芸品を熱心に模写することを通して、歴史の知識を深めていきました。美術大学ではヴォイチェフ・カルネリ・スタットレルの影響で、素描の厳格な専門的技術と、絵の表面を丹念に精密に仕上げる方法、そして一種の天職・民族的使命として理解される美術への真剣な取り組みを自分のものにしました。マテイコにとって2人目の教師であったヴワディスワフ・ウゥシュチキェヴィチは、彼の歴史への関心に巧みに火をつけ、遺跡と歴史的記録への尊敬心を植え付けました。1958年12月、国外でのさらなる勉学のための奨学金を獲得すると、マテイコは、ミュンヘンに向かいました。7か月間、当地の美術大学で、ヘルマン・アンシュッツの指導下で勉強し、長い時間をアルテ&ノイエ・ピナコテークで古い巨匠や新しいドイツ・アカデミズムの代表作家の作品を研究してすごしました。当時彼は、フランスの美術家ポール・デラローシュの絵画に熱中する時代を経験していました。1860年にはウィーン美術大学での勉学を始めましたが、クリスティアン・ルーベン教授からの作品批評の際に示されていた指示に不満な彼は、ただちにそれを中断しました。マテイコの思想的・芸術的態度は1860年代初めに、パリス・フィッリピの彫刻工房に集まった若い美術家・作家・歴史の集団であるクラクフ・ボヘミアで成熟していきました。後年クラクフ歴史派の共同創始者となるユゼフ・シュイスキとの友情はこの時期に始まりますが、彼は当時すでにマテイコ絵画の思想的概念を鼓吹するという影響を及ぼしていました。

初期の絵画

30歳を前にして画家マテイコはすでに国際的名声と評価を獲得し、フランス批評界は彼をヨーロッパにおける最も偉大な歴史画作者の一人に加えました。最初の成功を収めたのは1865年、毎年恒例のパリ・サロンにおいて、『スカルガの説教』により金メダルを獲得したのです。2年後、パリ万国博覧会において、『1773年ワルシャワ下院でのレイタン』により金メダルを獲得し、この絵は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって買い取られました。同じ1867年に画家は、フランツ・ヨーゼフ騎士団十字勲章を授かりました。1865年からマテイコは繰り返しパリ(1867,1870,1878,1880年など)とウィーン(1866,1867,1870,1872,1873,1882,1888年など)を訪れました。1873年にはまたプラハとブダペストを、1878~79年と1883年には、イタリアに旅しました(ヴェネツィア、ローマ、フィレンツェなど)。1872年には数か月をイスタンブールで過ごし、そこで彼の芸術的業績の中では唯一の東洋的風景画群が生まれました。1873年に、プラド美術大学学長の地位に就くようにとの公式の申し出を受けました。マテイコは辞退し、それがきっかけで、彼にクラクフ美術大学学長就任が提案されました。彼はこの職務を、1873年から死去まで務めました。彼の教え子の一団の中には、モダニズム時代のポーランド美術の傑出した創作者たち――ヤツェク・マルチェフスキ、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ、ユゼフ・メホッフェルがいます。

民族の精神的指導者

教育活動の他、マテイコはクラクフの史跡保護の分野で巨大な功績を果たし、ヴィト・ストフォシュ(ドイツ語名はファイト・シュトース)作のゴチック祭壇修復(聖マリア教会)(1867-69)、織物会館建築修復(1875-79)、ヴァヴェル城修復(1886)、聖マリア教会修復(1889)の際は再生委員会の作業に参加しました。調査研究活動に加わり、ヴァヴェル城祭壇の墓を開ける際の記録スケッチを作成しました――ヤン・カジミェシュ(1869)、ヤドヴィガ王女(1887)、オレシニツキ枢機卿(1887)です。1872年にクラクフ学術アカデミー特別会員になりましたが、彼は同時期に同アカデミー史跡復元法制定委員会の活動に参加しています。1889-91年にマテイコの設計に従って作られた聖マリア教会内装の多色装飾は、当時としては画期的な作品で、ポーランドにおけるこの分野の絵画の再現にとって、真に記念碑的な意味を持っています。1887年に画家はステンドグラス製作の分野で独り立ちすることを志望するクラクフ美術大学の学生のために特別奨学金を寄贈しました。

マテイコは様々な協会の主催する展示会――クラクフ美術愛好者協会(1855年から)、ルヴフ(現リヴィウ〔ウクライナ〕)同協会(1868年から)、クラクフ学術協会(1864年から)、ワルシャワ ザヘンタ(励まし)美術協会(1861年から)――に参加しました。19世紀ヨーロッパの最も重要な芸術の中心地で繰り返し自作を展示しました――(1865, 1867, 1870, 1874, 1875, 1878, 1880, 1884, 1887), ウィーン (1866, 1867, 1869, 1870, 1872, 1873, 1875, 1877, 1878, 1880), ベルリン(1879, 1884, 1891, 1893), プラハ(1868, 1870, 1873,1876), ブダペスト(1872, 1877, 1879), ロンドン(1871) 、そしてペテルブルク(1879)などです。ポーランド人画家に授けられた多数の賞の中で、とりわけ権威があるのは1878年万国博覧会での金メダルです。1870年にはパリで『ルブリン合同』を展示してからレジオン・ドヌール十字勲章を、1873年にはウィーンで「名匠メダル(Kunst-medaille)」を、1887年にはオーストリア皇帝勲章「文学と芸術(Pro litteris et artibus)」を受けました。同じ年マテイコは歴史分野における知識を認められた証として、ヤギェロン大学名誉博士号を授かりました。1883年には、教皇レオ13世に『ウィーン近郊のソビェスキ』をポーランド民族からの贈り物として献上して、ピウス9世十字騎士勲章を授けられました。当時のヨーロッパにおける最も偉大な画家の一人としてのマテイコの地位は、多くの権威ある組織の会員に選ばれたことによっても裏付けられます――フランス美術アカデミー(1873)とフランス学士院(1874)、ベルリン美術アカデミー(1874)、ウルビノ・ラファエロ・アカデミー(1878)、ウィーンの芸術協同組合(1888)などです。彼の愛国的な生き方と世におけるポーランド美術懸賞における功績が認められたしるしは、1878年の式典でした。その際、クラクフ市長ミコワイ・ズィブリキェヴィチはマテイコに、王のいない時代における民族の精神統治の象徴として錫杖を手渡したのです。マテイコはその他にも、ルヴフ名誉市民(1869)とクラクフ名誉市民(1882)の栄誉を受けています。ルヴフ国民議会は1882年に、マテイコが選ぶクラクフ美術大学学生の外国留学のために、彼の名を記念した奨学金を寄贈し、同年大学の新しい建物が(それ以前にマテイコが市当局から授けられた敷地に)建てられ、それに面した広場はマテイコ広場と命名されました。1883年には、創作25年周年を記念して、ヴァヴェル王宮でおよそ100点の作品を集めた記念展示会が催されました。マテイコの死の翌年にポーランド社会が彼に表した敬意の一つは、彼のライフワークの巨大な展示会を開いたことです。それは1894年の国内博覧会において、特別に建てられたパビリオンを占めるという巨大さでした。

全盛期の絵画

マテイコが初期に描いた歴史画(1851-1861年)はいまだ、エピソードの描写、静的で規範的な姿勢と身振りの人物たちの配置と集団化に一定の図式性があるのを特徴としています。絵画技法の面では、輪郭の精密さと細部の綿密な仕上げと絵具を塗り重ねすぎないことによって得られる丹念に平滑化された表面が特色です。時が経つにつれ、画家の青年時代の作品には、人物の個性化、それらの心理的反応の違いをとらえ、描かれた場面のドラマツルギーを深めようという志向が現れます(『クラクフ・アカデミーの教授たちに貴族の特権を与えるジグムント1世』〔1858年〕、『ボナ女王の毒殺』〔1859年〕、『ビェァヌィのヤン・カジミェシュ』〔1861年〕)。これらの初期作品に早くも、マテイコの歴史への強い興味、古い衣装・室内の建築の要素・さまざまな機器と装飾品を精密に再現する好みが現れています。

マテイコの思想的・芸術的姿勢が急速に成熟した時期は、一月蜂起勃発前の時代にあたります。ワルシャワでの愛国的示威行動、ポーランド人の新たに掻き立てられた希望と独立への志向は、若い画家の想像力に深い影響を与えました。

スタンチク

1862年に完成した『スタンチク』は、彼の創作の発展における画期的作品であり、24歳の画家のある意味の信条表明です。スモレンスクの国境要塞をポーランドが失ったこと(1514年の対モスクワ戦争)の政治的影響について、たった一人胸が塞がれるような物思いに考えこんでいる宮廷の道化――マテイコの解釈では、彼は慧眼と政治的英知、市民の良心と国の運命への時代を超越した心労の象徴となるのです。ここには初めて、歴史的現象の継続性とそれらの相互関係への深い理解に発する芸術家の歴史思想が現れています。マテイコは、後年のクラクフ「歴史派」の創始者ユゼフ・シュイスキ同様、18世紀末におけるポーランドの没落の原因を、それ以前の軍事的勝利を活用しなかったことと、国家の為政者が犯した誤りに見ていました。『スタンチク』『スカルガの説教』(1864年)『1773年下院におけるレイタン』(1866年)と続く作品は、歴史思想の一定の連続を構成しています――民族の敗北の予見、想起と警告、敗北の悲劇的現実化です。17世紀の政治論であるピョトル・スカルガの下院での説教が、その作者であるイエズス会士、ジグムント3世の宮廷付き説教者であった彼を主人公とする絵画を描くヒントになりました。マテイコによって描かれた場面では、スカルガは、下院説教の文書の記述通り、貴族と豪族の横暴と階級的エゴイズムを糾弾し、完全な無政府状態に陥る前に祖国を救済すべく、目覚めよと呼びかけています。警告は無駄に終わり、スカルガの預言者的予告は18世紀末に実現しました――数次の分割条約の結果ポーランドはヨーロッパ地図から消し去られ、その領土はロシア・プロイセン・オーストリアの間で分けられました。この史実を象徴しているのが、分割条約に抵抗する標題主人公の劇的抗議を描いた、『1773年ワルシャワ下院でのレイタン』(タデウシュ・レイタンはノヴォグルト地方の下院議員)です。『スカルガの説教』がポーランド人の良心を動かすことを狙いにしていたとすれば、『レイタン』はもはや、豪族階級に対して投げつけられた明白な挑戦状であり、特定の豪族代表の裏切りと祖国を強大な異国に売ったことへの糾弾です。この絵は同時に、世論の激しい動揺を引き起こしました――「人気取りのために歴史的不名誉を表沙汰にした」ことなどに対して、マテイコを非難したのです。この絵画によって画家は、過去との思想的決算の時期、ポーランド共和国没落の原因をめぐる問いへの回答を探す時期を終えました。

『グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い』

一月蜂起敗北(1864)以後、疑念が一般に広がり、ポーランド社会における精神が堕落した時代において、彼は極端に自らの画調を変えました。彼はそれ以後、旧ポーランド共和国の誉れと戦いの栄光の絵画的ヴィジョンを通して、独立の希求の正しさへの信頼を維持し、ポーランド人の信条と知性を励まそうと望みつづけました。彼はこの理想に生涯の最期まで忠実でした。ポーランドの政治・軍事的成功を描く巨大な画布を作りました。それらの歴史的主題はしばしば、現今の政治的事件に関する芸術家の思索を伝える契機になりました。1869年に完成した『ルブリン合同』は、1569年における重大な史実、ポーランドとリトアニアが一つの国家組織に結合したことを描いています。この絵画によってマテイコは、同等のパートナーとしてポーランドとの合同に入ったリトアニアのかつての主権を想起させようと望みました。これは、一月蜂起後のリトアニア住民を見舞った残酷な弾圧の波に対する画家からの応答であり、ポーランド分割国家がリトアニアを元来ロシア領であると認めていることに対する抗議でした。1872-78年に描かれた『グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い』は、ポーランド軍のドイツ軍に対する最も誉れある勝利の一つ、1410年にポーランド・リトアニア・ロシア軍が十字軍の巨大な軍事力を撃破したこと(遺憾ながら政治的には利用されなかった)を描いています。この絵画は、1870年の普仏戦争勝利後、ヨーロッパにおけるプロイセンの覇権が増大した時期に誕生しました――これもまた、プロイセンによる分割領におけるポーランド人住民ドイツ化の強化に対する芸術家からの応答でした。その一方で、『ウィーン近郊のソビェスキ』(1883)を描き、これを教皇に献呈することで、マテイコはヨーロッパに、200年前にオーストリアとキリスト共同体の全体をその脅威となりつつあった強国トルコから守り、後にハプスブルク家の分割政策などの結果、自らの国家性を失った民族の存在を想起させたいと望んだのです。

旧ポーランド共和国が現在の分割国に勝利したことを示すという、同様の思想的メッセージを表しているのは、巨大な画布に描かれた『プスコフ近郊の(ステファン・)バトルィ』(1872年)と『プロイセンの臣従礼』(1882年製作)でした。前者において画家は、リヴォニアと大リトアニア公国のベラルーシを守るためにポーランドがロシアに勝った戦争を取り上げ、モスクワ公使がこの絵画ではポーランド共和国の強大さと権威を象徴しているステファン・バトルィ王の前に跪いている場面を描きました。後者の構図は、1525年に、旧十字軍領、後にプロイセン領に編成された土地の最初の統治者である、アルブレヒト・ホーヘンツォーレルンがジグムント1世の前に、全封土を代表して敬意を捧げる場面です。

ヨーロッパの歴史画と比べると、マテイコによるこれら巨大絵画の連作は、国の政治的状況と民族を存在危機から守る必要から生まれた、歴史哲学思想の深遠さで際立っています。過去の場面を再現しつつ、画家は「一瞬に凝縮された一時代」を描こうと努めました。古い出来事の原因とその後年における影響を象徴的に取り上げながら、彼は歴史的総括、歴史の力と人間の運命の劇的葛藤をとらえようとしました。こうした主たる(それは、純粋芸術的価値との関係においてもです)特徴から、彼の創作はとてもしばしば史実に対する厳密な忠実さから離れます。例えば、主題となっている出来事に参加していない、しかし思想的意味でそれと関連のある人物を絵画に登場させることなどによってです。

晩年の創作

マテイコ晩年の作品では、再び、ポーランドの過去との清算を目指す志向が見てとれます。『ポーランドにおける文化の歴史』と題された20枚の素描画におけるポーランド賛美がある他、実現されなかった希望、民族の道徳的再起と国を分割から守る可能性の喪失について象徴的メッセージとして物語る絵画(『ラツワヴィツェ近郊のコシチュシュコ』〔1888〕『5月3日憲法』〔1891〕『ヤン・カジミェシュの誓約』〔1893〕)が登場します。『ラツワヴィツェ近郊のコシチュシュコ』は、1794年のコシチュシュコ蜂起における、勝利に終わった対ロシア戦闘でのクラクフ近郊の村の農民たちの英雄的なふるまいを取り上げています。蜂起指導者のタデウシュ・コシチュシュコが当時農民に対して行った、経済的条件改善と個人的自由付与の約束は、長く実現しないままでした。これに起因する農村大衆の失望感は、蜂起の闘争への全体の参加への意欲を失わせ、その後農村における社会的緊張が増大する原因になりました。『5月3日憲法』は、完全な主権喪失から祖国を守る目的で1791年に制定された、(当時のヨーロッパにおいて最も近代的な)統治令へのスタニスワフ・アウグスト王の誓約式がテーマです。この場面の崇高な雰囲気の中で悪い将来を予告するように響くのは、将来の指導者たちと4年制議会(そこには5月憲法も含まれます)の改革的な事業とを抑圧するために、また「貴族の黄金の自由」を擁護するために、ロシア庇護下に結ばれたタルゴヴィツァ同盟参加者たちが臨席していることです。最期の作品(画家の死がその制作を中断させました)は、1655年に始まるスウェーデン侵攻の際、ポーランドの完全なる敗北に直面してヤン・カジミェシュ王が行った荘厳な誓約の場面を描いています。ヤン・カジミェシュはそのとき、ポーランドとリトアニアの聖母マリアの名を呼び、彼女に両民族の用語を託し、また戦争が勝利に終わった暁には国家体制を根底から改革する(地方議会に安定を取り戻させ、農民の地位を向上させるなど)ことを予告しました。その誓約は、もう一つの実現しない約束となりました。広がりつつある無政府状態、貴族と豪族の反抗、絶えざる戦争がいかなる改革をも不可能にし、希望を失った統治者は1668年に王座を放棄し、永久にポーランドを離れたのです。

全生涯にわたって創作された、巨大絵画のある意味で主軸を成す連作を補うかのように、さまざまな霊感を受けて作られた小絵画が数十点あります――主にヤン・ドゥウゴシュとマルチン・ビェルスキの古い年代記の読書、国民の記念年に参加しようという意志、過去についての芸術家の個人的思索、一定の歴史的内容の絵画の注文の成果です。これらの作品を並べると、マテイコの歴史的関心の範囲がはっきりと見えてきます。その中心は、ピャスト朝の複雑な歴史、特に明瞭なのは、事件・劇となる主題に惹かれる傾向(特に、『ロゴジノでのプシェムィスワフの死』〔1875〕、『ブジェシチ・クヤフスキェで十字軍との同盟を破るヴワディスワフ・ウォキェテク』〔1879〕、『キエフのズウォタ・ブラマに立つボレスワフ・フロブルィとシフャトペウェク』〔1884〕、『シトー会士をポーランドに案内するピョトル・ヴアスト』〔1888〕、『聖スタニスワフ殺害』〔1892〕など)、そして最後のヤギェロンたち――ジグムント1世とジグムント・アウグウストが統治したルネサンス時代における文化・学術の隆盛を証明する出来事(1521年大聖堂の塔にジグムント王の鐘が吊るされたこと〔1874〕、バビン共和国〔1881〕、バビン共和国ポズナンのルブランスキ大学設立〔1886〕など)です。

唯一無二のスタイル

マテイコは多くの19世紀画家がそうであったように、歴史上の有名な恋愛物語に関連するテーマを積極的に取り上げました。ポーランドで特に人気があったのはジグムント・アウグストとバルバラ・ラジヴィウゥヴナのドラマチックな関係です(絵画でそれを表現したのは、ユゼフ・シムレル、ヴォイチェフ・ゲルソンなど)。ポーランドの大衆の想像力に訴えかけたのは、王とリトアニア公爵家出身の家臣の恋愛の悲劇的な運命、秘かに結ばれた婚姻をポーランド下院によって認めさせるための妥協を知らぬ戦い、戴冠直後の若い女王の死でした。マテイコは繰り返しこのストーリーに言及しました――『ヴィリニュスの庭園にいるジグムント・アウグスト』(1865)『ヴィリニュスのラジヴィウ家宮廷にいるジグムント・アウグストとバルバラ』(1967)『宮廷にてバルバラ・ラジヴィウゥヴナを紹介するジグムント・アウグスト』(1858、水彩画)『ジグムント・アウグストの前にバルバラの影を呼び出すトワルドフスキ』(1884)。

もう一つの、それ以前のロマン主義時代の図像学に発する、当時の絵画に特徴的なテーマ的モチーフは、偉人――非凡な個性に恵まれ、社会大衆から抜き出た統治者、政治家、学者、芸術家――の肖像です。マテイコがこのテーマを用いたのは次の絵画です――『コンラット・ヴァレンロット』(1863)『目の見えなくなったヴィト・ストフォシュと孫娘』(1863)『ニコラウス・コペルニクス』(1873)『ヴェルヌィホラ』(1883-84)『ブィチナ近郊のザモイスキ』(1884)。

マテイコの歴史画の綱領は、クラクフ、ミュンヘン、ウィーンでの勉学中に習得し、国際美術展で目にしたアカデミー派の規範から遠く離れていました。彼の絵画を同時代の数多くの歴史絵画から際立たせていたのは、過ぎ去りし時代に対する彼の態度でした。彼はそこに波乱万丈、扇情的、感傷的な逸話のみを探していたわけではありません。彼は歴史を連続する本質的に力動的なプロセスとしてとらえていました。彼は芸術家の根本的課題の一つは、歴史的出来事をその公正な評価ができるように深くまで研究すること、そしてそれをつくりあげている人々と政治力に道徳的審判を下すことにあると考えていました。歴史から流れ出す普遍的内容の総括を志向する中で、彼は、とても早い時期に古い出来事の外的・視覚的側面だけを記述する、感情のない正統的な挿画から離れていました。過去の絵画的ヴィジョンの中で彼が目指したのは、何よりも歴史の闇の中から、生きた深く感じる人間をつかみ出すことであり、しばしばその者をぶつかり合う政治的利害や道徳的大義の渦中において描き出しました。

マテイコの個人的スタイルが現れたのは、1860年代半ばごろです。その起源は最も多くの場合、ヴィト・ストフォシュの彫刻、後期ルネサンス時代のイタリア絵画(主に、パウロ・ヴェネローゼとティツィアーノ)への熱愛から生まれています。その際立った特徴は、画家が、多人数の群衆から成る、まるで色彩豊かな劇場舞台のようにパノラマ的に展開することの多い、空間的な深さのない前面で展開する場面を構図にする傾向であり、また、ときにパトスに近い巨大な表現規模、全場面のアレンジだけでなく、個々の人物の姿勢と身振りの表現における完璧なドラマツルギー、輪郭線の力動感、しばしば土地独特の色彩の不調和に依拠した、効果的で濃密な色彩感、そしてなによりも極めて明確で表情と心理の線の表現に満ちた人物を造形する才能でした。マテイコの伝記作者たちはほぼ全員、彼の創作のこうした最も明瞭で、最も個性的な特徴の一つとして、まさにこの点を挙げています。これを的確に把握したのはスタニスワフ・ヴィトキェヴィチで、彼は、マテイコによって作り出された、ヒロイズムと不屈の意志を特徴とする、そのパテティックな身振りや興奮に輝くまなざしの中に現れる、大いなる感情に突き動かされる、特殊な人々を創造したことについて述べています。

マテイコの創造力と技術的手段の発展の全盛期と見なされているのは、1865-1884年ごろです。私たちは芸術家の後期作品の中に、彼の個人的スタイルが絵画の常套手段へと段階的に変形していく様を認めます。構図に力点がなくなり、その明晰性が輪郭と素描のように重ねられた細かな色斑の中に消え、常に力動的だが同時に精密だった描線が次第に暴力で神経症的になり、一部の絵画の中では、明らかに色彩の幅が狭まり赤と焦げ茶色の色調が占めるようになるのです。こうした要素の影響で、マテイコの後期絵画の多くには、常に彼の絵画の根底的特徴だったあの表現力が欠けています。

歴史画と肖像画

マテイコの作品は、しばしばアカデミックな歴史画のいわゆる「偉大なる常套手段」と結び付けられますが、単純な一義的定義はできません。想像力のロマン主義的な生命力、感情の熱、パトスと絵画的表現力が、彼の作品を、19世紀後半のポーランド・ヨーロッパ美術を背景にしたときに、特異な現象にしています。それはマテイコの熱い愛国心、深い歴史的知識、過去の芸術遺産への愛情から生まれ、彼にとって何よりも、祖国と独立思想に奉仕する手段でした。マテイコは、時代の現実を再現することにおける19世紀歴史主義の科学主義を、時代をつくっている事件の絶対的な評価と解釈し、それらを絵画的に表現する主観的方法と結合させていました。彼によって生み出された芸術的ヴィジョンの創造性は、ある意味で、芸術家の心理と彼の世界との関係の解釈として理解される、表現主義の原型を成す美術概念と関連があります。

マテイコ作品の二番目の重要な流れである肖像画の分野でもまた、画家は19世紀半ばに支配的だったアカデミズムの規範から離れた、独自の個人的スタイルを構築しました。創作の初期に彼は、自らが住む市民社会階層の代表者――友人、家族、さらにはクラクフの金持ちの商人や役人――ばかりを描いていました。これらの絵画手段という点ではつつましやかな誠実かつ精密に描かれた肖像から観客を見つめているのは、身分の安定した、謙譲な、総じて無感情に落ち着いた表情の人々です。これらの肖像画(主に1857-61年に描かれました)を描いた二十歳前後の若い作者はおそらく、まだ、これのモデルの心理に完全には入り込めなかったのでしょう――それは平均的な、一般に平凡な個性を持つ人物に対しては、より困難でした。こうしたことを背景にしたとき、集中と力の表現において示唆的な、画家の23歳の姉を描いた『マリア・マテイコの肖像』(1859)は際立っています。この肖像画の表現力は、探るような、と同時に思いがけぬ悲しみに満ちた若い女性のまなざしに凝集しています。

歴史画の分野におけるポーランド美術の愛国的志向の天才的表現者としてのマテイコの栄光が大きくなったことは、肖像画家としての彼の存在の増大をもたらしました。彼が描く肖像画を最も著名な貴族、クラクフの知的・社交場のエリートが欲しがり始めました。1864年に描かれた偉大なクラクフの医師、教授、ヤギェロン大学総長だった人物を描いた『ユゼフ・ディテルの肖像』に始まり、マテイコの肖像画のスタイルもまた徐々に変わって、深い表現と描写へと向かいました。この絵の後、画家は、その他の大学教授・総長、クラクフ市長、クラクフ市議会議長の公式の肖像画を数十点描きました(カロル・ギレフスキ総長〔1872〕、下院議長・ガリツィア代表アルフレト・ポトツキ〔1879〕、ユゼフ・シュイスキ総長〔1886と1888〕、下院議長・クラクフ市長ミコワイ・ズィブリキェヴィチ〔1887〕、スタニスワフ・タルノフスキ総長〔1890〕)。しかしながら,それらのいずれにおいても、この作品における記念碑的な人物の体裁、心理的表現の深さを達成することはできませんでした。ディテルの肖像画は、鋭くほとんど彫刻な色彩の塑造を持つ、モデルの顔の目立つようなほとんど暴力的な個性化にもかかわらず、モデルを遠近法上困難で一見効果的でない前景での把握においてそれを描いているにもかかわらず、その個人としての特徴を維持しつつ、かつ、総長としての権威・権力・威厳の象徴のランクにまで成長しているのです。

マテイコの信じるところでは、肖像画の真実とはそれが外見的に似ていることにだけにあるのではなく――その機能を完璧に果たしていたのは、モデルの外見の忠実なコピーである写真でした――第一に、複雑で時に深く隠れている人間の精神層を反映していることにありました。彼は、絵を描くにあたって、まずは描かれる人物に対する自らの感情的・知的関係を定義したので、結果として何か時間を超えた、ポーズをとっている具体的な瞬間を超えた、その外見と個性の特徴の総合を作り出すことができました。その人物についての創造に該当する心理的表現を深めることに集中して、マテイコは、理想化された、しかしまたリアリズムの要求に応えていない、アカデミズムの規範から逸脱した、一貫して個性的な肖像画スタイルを創造しました。彼によって描かれた、同時代の貴族や知的・政治的エリート代表者の肖像は、慧眼な観察に裏打ちされた忠実な人物設計にもかかわらず、姿勢・身振り・表情のある特別な権威を特徴とし、それらの作者の精神生活の深さと濃密さの刻印を帯びています。豊かで典型的な背景から浮き上がる人物は、しばしば劇の主人公たちとの連想を引き起こします。私たちがそれを認めるのは、特に1900年作のカタジナ・ポトツカ(旧姓ブラニツカ)の肖像においてです。彼女は当時、クラクフ社交界のファーストレディと呼ばれ、慈善活動で知られ、遍く尊敬に包まれていました。ポーランドのレディの典型に見事にふさわしい、描かれている人物の気品と社会的地位は、彼女の堂々とした姿勢、さらには慎ましやかだけれども、上品な服装の赤、さらにはバロック時代の宮廷肖像画に及ぶ伝統の内装の装飾的要素(飾りテーブルと、背景に掛けられている緞帳)によって強調されています。代表的な装飾品の豪奢さにかかわらず、観客の注意は完璧に特徴づけられた、高貴な表現の年長女性の顔です。描かれた人物の記念碑化へのまったく同じ志向、その心理への同じような配慮、さらには把握の典型化への明白な傾きを、私たちは次のような作品の中にも認めます――政治活動家で元流刑囚、社会活動家、美術品と民族の記念品収集家(それを示しているように思われるのは壁に並べられた装具足です)であった人物を描いた『ピョトル・モシンスキの肖像』(1874)、慈善活動で知られた貴族女性、卓越したピアニストでショパンの教え子だった人物を描いた『マルツェリナ・チャルトリスカの肖像』(1874)は、アップライトピアノ(その上にショパンのデスマスクのメダイユが掛かっています)の脇に立つ彼女を描いています。これらの絵画において、芸術家は、公的性格を持つその他の多くの肖像画におけると同様、光輝とさまざまなオブジェの質感の特徴づけにおける完全な名人技によって表現された色彩豊かな装飾的要素の豊饒さに、簡素さと人物の服装の深い黒色を対照させています。それによって、顔の年齢と手によって示されている、人物の完全な表現をさらによく際立たせることができるのです。

自らが属している、豊かな市民とインテリの代表の肖像画において、マテイコは終始一貫してリアズム寄りでしたが、一つだけ留保がつくのは、最も身近な家族――妻と子どもたち――の肖像画です。彼らの肖像画は高貴な伝統の精神で、しばしば絵画的な歴史気衣装を着せることによって効果を強めています。そうした特徴を有するのは、『結婚衣装を着た妻の肖像』(1879)で、芸術家によって古ポーランド衣装を引用しつつデザインされた、見栄えのする衣装をまとった、テオドラ・マテイコを描いています。若い既婚夫人の身振りの豪奢さと権威を把握しようとする画家の志向は、ここで、強い個性、誇り高く、自らの美貌を意識した、しかしより深い精神生活の特徴を表してはいない女性の明敏な特徴づけと結びついています。同じような古式豊かな服装で描かれているのが、マテイコの子どもたちの肖像(『芸術家の4人の子どもたちの肖像』〔1879〕、『ハイタカを持つ娘ヘレナの肖像』〔1882-83〕、『カナリアを持つ娘ベアタの肖像』〔1882〕、『馬にまたがった息子イェジの肖像』〔1882〕)で、これらにおいては彼がとてもよく知っているモデルの心理的表情をとらえようとする配慮を超えて、丹念に研究されたポーズと絵画的な見栄えのよさへの志向が、1882年に描かれたいくつの肖像画においては、古ポーランド様式の明白に古式豊かな服装に明らかに見て取れる典型化への志向が主調です。姿勢と色彩の豪華さによって特徴づけられた服装のすばらしさは、モデルたちにその子どもの年齢に合わない高貴さと権威の独特の特徴を与えています。モデルの特徴づけにおける把握の直接性と明らかに感じ取れる抒情性のトーンに特徴づけられているのが、1870年に描かれた『芸術家の三人の子どもの肖像』です。

自らの社会的階級のその他の代表者の肖像画において、マテイコはけっして、モデルの外面を理想化したり、衣裳と装飾の豪奢さを通して、彼らの社会的地位を暗示しようと努めようとしたりはしませんでした。これらの肖像画においては、しばしば自然な背景での規範的な胸像に留まる、より簡素で質素な構図を用い、色彩の豊富さを抑え、外面的な絵画性とあらゆる装飾的要素を捨て、注意を顔の完全な表現を伝えることに集中しています。それが認められるのは、公証人・判事・ボフニャ郡議会議長だった、義兄レオナルト・セラフィンスキの肖像、コンスタンティノーボルに住んでいたマテイコの親類ルドヴィカ&ヘンリク・グロプレルの肖像画です。マテイコがそれ以前には見られない表現に到達したのは、死の1年前、すなわち彼の歴史画が既に後退期に入っていた時期に描かれた2枚の肖像画です。その1枚が、ワルシャワの法律家で政治活動家、一月蜂起におけるロムアルト・トラウグットの協力者で、三度シベリアに流刑された人物を描いた『ヘンリク・クライェフスキの肖像』です。私たちがここに目にするのは、モデルの規範的なポーズの代わりに、観客に流れるように視線を投げかけるために、一瞬読書を中断した人間であり、彼の真剣な顔には、読書から生まれる思索の影のようなものが漂っています。把握の外見上の偶然性にもかかわらず、芸術家は自らの主人公の心理に深く入り込み、彼の賢明で思索に没頭した目の表現を完璧に感じ取っています。結果として、彼は、まずは構図の組み立てを最小限にまで簡素化しつつ、極めて貴族的で、深く人間的で真に迫った老年研究を行い、そのうえで人生の転変と個人的敗北が刻印を押し、しかしその精神の強さを折ることなく、思索と生きる意志を抑圧することもなかった人間を描きました。マテイコをリアリズムによる人間把握の名手の列に加える、次の作品は1892年の『自画像』です。この悲しみで胸を打つ、思索的な気分の肖像画は、芸術家の中で孤立、同時代人の理解の欠如の意識が次第に深まり、次第に強く孤独の苦みを感じていた時期に生まれました。まだ54歳だったときに描かれたこの作品は、超人的な仕事に疲れ果て、あまりにも早く老いた人間を描いています。黒い眼の刺すようなまなざしを持つ、皺に刻まれた彼の顔は、悲しみと苦みをたたえ、全身は稀に見る巨大な権威を放っています。筆が載ったパレットが分厚い書物の上に置かれているのは、画家の歴史への情熱と民族史画家としての使命感を暗示しています。クライェフスキの肖像画同様、マテイコの自画像は彼の初期の絵画を比べると、非常な素朴さと画法の質素さで際立っています。痩せた顔、生き生きとした注意を引き付ける目の輝きと仕事で疲弊した、細い手は、この絵の表現とその心理的真実の深さを強調しています。

マテイコは、300枚以上の油絵――肖像画、歴史的・宗教的・寓意的内容の絵画――、数百枚の線画とスケッチ(そこには、一般に広く知られた、著名な『ポーランド王と公爵の列』〔1890-92〕も含まれています)を遺しました。貢献を果たしたポーランド人、偉大な芸術家、卓越した教育者、クラクフの史跡擁護者として、この世を去りました。彼の絵画は、それが社会的受容において果たしていた、そしていまだに果たしている役割を離れて、純粋芸術的な範疇だけでとらえることはできません。彼によって創造された民族史の総括は、永遠に歴史的知識とポーランド人の次なる世代の愛国教育のカノンに刻まれました。それを明白に証明するのは、芸術家の死後100周年にワルシャワ国立美術館で催されたマテイコ歴史画展の成功で、そこには特に学校に通う若者たちが群れを成して押し寄せたのです。

著者:エヴァ・ミツケ=ブロニャレク、ワルシャワ国立美術館、2004年6月
翻訳:久山宏一(ポーランド広報文化センター)

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