22.12.2019 ニュース

ポーランドのユダヤ共同体代表との集いにおける ポーランド共和国大統領のスピーチ

尊敬する大臣閣下!

尊敬するその他省庁の大臣閣下!

駐ポーランド大使ならびに令夫人!

尊敬する教授!

尊敬する委員長!

ポーランド共和国主席ラビ閣下!

敬愛するその他ラビのみなさま! ご来賓のみなさま! 尊敬するみなさま!

今年もみなさまを、大統領宮殿での例年の集いにお迎えできることに、厚くお礼を申し上げ、とても嬉しく思います。これは私たちにとって恒例となったハヌカ祭の集まりですが、私の大統領任期中、私と妻が大統領宮殿で執務を行っている期間中では、ハヌカ祭とクリスマス休暇が重なる2度目の例になります[1]。従って、今回私たちは、ハヌカ祭後数日を経て集っています。私は、ハヌカ祭の折りにすでにみなさまの共同体にすでにお送りした祝詞を、繰り返し申し述べたいと思います。ご健勝、このうえないご発展、あらゆる善きこと、みなさまが望んでおられるすべてのこと、一人一人が究極的に切望し目指すものがご実現するようにとの祝詞を。 これはまた、ポーランド共和国大統領である私にとって、とても特別なときです。つい先ごろ、世界は私たちに、必ずしも予期し得なかった出来事をもたらしました。極めて重要な記念日が、私たちの目前に控えています。ナチス・ドイツの強制絶滅収容所アウシュヴィッツ・ビルケナウ解放75周年はもうすぐです。この日付は2005年に、国際連合総会で、ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)に定められました。実際、この象徴的な場所においてだけでなく、公的で行政的な場所において、このときから1月27日という日付は、国際的な意味での記念日となりました。 ホロコーストの犠牲者の追悼を望む人々だけでなく、その記憶を貴重なものとする人々、近親者・尊敬する方々の墓前で、あるいは無残に虐殺された人々の遺灰の前で追悼に首を垂れたいと望む人々、生き延びようとした/生き延びた者を讃えようと望む人々が、毎年、敬意を表すために、ナチス・ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所という恐るべき「死の工場」敷地で出会うことが恒例となりました。 そこでは毎年、国際社会の指導者の多くが一堂に会してきました――特に、ポーランドで「区切りがよい」と言われる、60周年、65周年、70周年、そして75周年においては。 ポーランド共和国大統領である私は、正直に申し上げますが、今回の75周年がまた、この象徴的なときに、この極めて象徴的な記念碑の下、この極めて象徴的な場所で、すべての人々を結集させるような偉大な催しになるだろう期待していました。みなさまもご存知の通り、例年、その場所はとても寒く、ときに凍てつくほど寒くなります。その場所にいると身体が熱を失うようなあの寒気を味わってこそ、人は、あの場所の恐怖を本当に理解するのです。 そのとき人は、あの人々がその場所に何年も、暖房もなしに、薄っぺらな囚人服だけを身にまとって、多くの場合は裸足で雪の上を歩いていたことを思い浮かべるでしょう。それを経験することすらできなかった人も多いのです――ただちにガス室、さらには焼却炉に入れられたからです。こうした運命が、ヨーロッパの偉大なユダヤ人社会にふりかかったのです。こうした運命はまた、300万人のユダヤ系ポーランド国民にもふりかかりました――彼らはホロコーストの時代に虐殺され、そのうち数十万人はまさしくアウシュヴィッツで虐殺されました。 私は、今年もすべての人々を結集する行事が催されるものと期待していました。私は、他ならぬこの場所から、改めて、世界に向けてあの偉大なメッセージが流れるだろうと期待していました。 はっきり申し上げましょう――私はエルサレムの国際ホロコースト・フォーラムから、他ならぬ収容所解放75周年と国際ホロコースト記念日を機に、ヤド・ヴァシャム研究所で催される行事への招待状を戴いて、驚きました。 私にとっては、他ならぬこの場所、私たちの今日の国土がある――当時は、ナチス・ドイツに占領されていた――ポーランドこそが、あの遺灰が眠る場所です。この場所が、あの偉大な象徴としての意味を持っている場所なのです。各人各様に、さまざまな言語で、死去して今日私たちとともにいない人々、虐殺された人々のために祈ることができる場所です。 私は、この場所こそそれにふさわしいと魂の奥底から考えています。あの記憶をこの場所から別の場所に移し、別の場所と75年以上前、そしてその後の数年――実質的に1940年から1945年まで――に起ったこととを関係づけることで、あの記憶を奪い去ってはならないのです。 しかし私はまた、考えました――私がホロコーストの犠牲者の記憶を認めようとしない、しかも、ポーランド出身の「諸民族の中の正義の人」もまた追悼され、みなさまの一人が最近インターネットに書いておられたように、彼らのために植樹された木がざわめきを立てることで、あの暗黒時代におけるポーランド人の生き方についての真実を物語っている、ヤド・ヴァシェム研究所において認めようとしない、といった議論が起こらないように、エルサレムに行くことにしようと。 しかし私は、式典では、1939年にナチス・ドイツとともにポーランドに侵攻し、私たちの国の分割を行い、実質的にあの時代において、その後のホロコースト実現をドイツのために可能にした、ロシアの大統領が演説する予定と知り、驚きました。ドイツ大統領が演説をすること、他の国々の大統領たちも演説することを知りました。しかし、ポーランド共和国大統領の演説は予定されていないのです。 私たちはさまざまな外交ルートで、ポーランドに発言権を与える可能性を手に入れようと試みました。これは、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンが、CIS(独立国家共同体)代表・大統領に向けて発言し、ポーランドとポーランド人について恐ろしいことを述べた――歴史を偽り、1939年の諸事件の決定的に歪められた歴史的背景を提示し、私の国と社会としてのポーランド人を一括りにして、悪し様に言った、私たちにとってとりわけ重要なときに起こった出来事でもありました。 プーチン大統領はまた、第2共和政時代の全体についても、虚偽を提示しています。当時の国内をどのような気分が支配していたからについても、虚偽を述べました。なぜなら、当時存在したのが、隣り合って暮らす多くの民族からなる共和国でなかったならば、ポーランドのラビたちは、1939年9月2日に、ドイツに侵攻されたポーランド共和国防衛の呼びかけを行うことはなかったはずだからです。もしポーランド共和国が彼らにとって敵国であり、もしポーランドが、ラビが精神的な庇護を与えていた国民を正当に扱っていなかったならば、そのような呼びかけを行うことはなかったはずだからです。ユダヤ人社会が、ポーランド共和国の中に、自らのポーリン(生きるのにふさわしい場所)を持つことはなかったはずだからです。 私はプーチン大統領の言葉を、聞き逃すことはできませんでした。私たちは、外交活動に着手し、戦略を策定しましたが、その重要な要素は、断乎として私が、「広義でのポーランドの立場を表明できないならば、エルサレムに行くことはできない」と言明することでした。第二次世界大戦中に逆された600万人のポーランド人――ポーランド共和国国民――(そのうち300万人がユダヤ人でした)を念頭においてのことです。ホロコーストの犠牲者中最多数を占めたのはは、ポーランド国民でした。 それなのに、ポーランド大統領が発言できないとはいかなることでしょうか? 私は、これは歴史的真実の歪曲であると、はっきり申し上げました。当時ユダヤの人々を強制収容所に送り込んだドイツ、ロシア、フランスの大統領が演説を行い、しかし、ドイツに一度も協力しなかった、その地下国家がドイツに抗して戦った、全力を尽くしてユダヤ人を支援しようと努めた、ポーランドの大統領が発言できないなどということが、どうしてあり得るでしょうか? ここまで述べると、当然、多くの人が立ち上がって、「それはそれとして、反ユダヤ主義者もいたではないか。低劣なふるまいをした人たちもいたではないか」と言うことでしょう。よろしいですか、私は、それを否定しませんし、否定したこともありません。反ユダヤ主義者もいれば、低劣なふるまいをした人もいました。いましたとも! 多数の人々は、つまるところ生き延びたいと願い、自分の生命を救出したいと願い、それ故に助けなかったか援助を拒んだのです。そういう人たちもいました――なぜなら生きることを欲したからです! ポーランドのドイツによる被占領地区では、ユダヤ人救済に対して、ドイツ側から死刑の脅しがかけられていました。これは占領下のフランスや他の被占領国で起こっていたことと比較して、決定的に異なる点です。ここではユダヤ人救済に対して、死刑の脅しがかけられていました。こうして、ウルマ家や他のポーランド人家族は隣人たちを救済したために、全員――子どもとともに――虐殺されたのです。 私は、なぜポーランド大統領が演説できないのか、理解できませんでした。昨日私は、声明を発表しました。最終的な声明です――エルサレムの行事には参りません。なぜならば、ホロコースト犠牲者について記憶する国際デーを記念する催事にふさわしい場所は、元ナチス・ドイツの収容所があったアウシュヴィッツだからです。その場所において、アウシュヴィッツ博物館がポーランド政府の支援の下で準備する行事が、1月27日に、催されます。そこではもちろん、私は他の人々とともに、虐殺された人々の記憶に敬意を捧げることでしょう。 私がこのことを申し上げるのは、みなさまの社会においてこうした決断とこうした議論の経緯が、必ずやさまざまな感情的反応をかき立てたことだろうと想像するからです。しかし、私はまずは、ポーランドのユダヤ人宗教共同体連合に、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン氏の演説後、歴史的真実の居場所をめぐって、みなさまがポーランド側を満場一致で支援し、支援してくださったことに対して、深い謝意を表したいと思います。 みなさまの社会――この数日の間に、私が下した決断への支援を表明してくださった公的機関を含む――を代表する多くの方々にお礼申し上げます。みなさまのご理解に大いなる感謝を! みなさまが、あの恐ろしい大量虐殺の犠牲者と彼らの苦しみに対する、大いなる深甚なる尊敬と記憶と敬意を認めてくださったこと、しかも死去したすべてのポーランド国民と彼らの記憶を心に刻む、ポーランド共和国大統領としての私の義務を考慮に入れてくださったことに、お礼申し上げます。そして今日、私の国ポーランドの誇りを心に刻むこともまた、私の義務です。その誇りを、私はいかなる方法によっても損ない、疑問視することは許されていません。そして、私に発言する権利を与えずに、それが疑問視されるような場所に出席することは許されていません。私は、それを受け容れることはできませんでした。 私たちはみなさまの、ご理解の言葉のすべてに、深く感謝したかったのです。このことを重ねて明言するのは、この集いにおいて、みなさまにご自身の耳で、聞いていただきたいからです。お集まりいただき、有難う。別のなりゆきもあり得ました。あの決断に賛成しなかった人々、またはそれに疑問を持たれた人々の中には、本日の集いに来るのを止めるという選択肢もあり得ました。でもみなさまは、ここにおられる。私は、毎年お目にかかるお知り合いのお顔を今、拝見しています。そのことに対して、心より有難う。 みなさまは、ポーランド共和国に住んでいる人々の集まりです。私たちの見解はさまざまであり、違う宗教を信じていますが、尊敬と相互理解の下ともに生きています。私たちはそのことに対して、みなさまに謝意を表明します。みなさまを見ていると、頬笑みが浮かびます。そして、「そう、私はすべてのポーランド人の大統領なのだ」という言葉が口をついて出ます。 そう、なぜならば、大統領宮殿に足を運び、ポーランド共和国という、私がそれを統合する大統領に選ばれた国との結びつきを感じている人はすべて、私にとってポーランド人だからです。私は、そのように見なしています。 これは民族問題ではありません。これは、人間の心の中にあるものの問題です。これは血の問題ではありません。人が血について尋ねるとき、私はよく頬笑みを浮かべてこう言います――「それならば、1千年の共通の歴史の後で、自らの血の中に一滴のユダヤ人の血も含まない、と百パーセントの確信をもって言える、そんなポーランド人の実例を示してください」と。私はまた、自分の家族の中にユダヤの血が流れているとも、一義的に断言できません。それができないのは、そのような歴史資料を持たないからです。私には確信があるのか、否か? みなさまもご存知の通り、確かに知っているのは、母親だけです。特に、研究技術がまだ完璧でなかった時代にはおいては。当時存在したのは、大いなる英知だけでした。 改めて、みなさまが始まったばかりの新年への私の心ばかりのお祝いの言葉をお受けくださいますよう、お願いいたします。改めて、みなさまのお立場に対して、最近数日にみなさまから感じたご支援に対して、私の大いなる謝意をお受けくださいますよう、お願いいたします。 私は、ポーランドとイスラエル国家の間に困難な関係は存在しない、今日ポーランド人とユダヤ人の間に困難な関係は存在しない、と確信しています。存在するのは、式典を主催する影響力ある団体に属する一定の人々にとっての、面倒な関係性かもしれません。イスラエル国家のことではありません。私たちは、式典が大きな影響力を持つ民間基金によって組織されていることを知っています。 私は、誠実で現実的で賢明な共同活動によって、私たちはこの困難なときも克服できると信じています。なによりも、ヒトラーのナチス・ドイツのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所という恐ろしい場所の解放から75周年目に、ホロコーストの犠牲者――絶命したすべての人々――に捧げられるべき記憶と敬意は、然るべき方法で捧げられなくてはならないと信じています。 本来あるべき方法で、そして私たちの一人一人が心の中に思い描くような方法で。私にとってこれは、すべてのポーランド人の記憶です。そこには、それは自らのうちにユダヤ人としての出自を持たない、そしてそれを持つことを確信しているポーランド人が含まれます。なぜなら、私は、「ポーランド人であること」の定義は祖国との結びつきの感情にあると考えています。このように定義しないとすれば、1939年ないしは1920年にポーランド共和国防衛戦争に斃れた兵士の墓、ダヴィデの星が刻まれている兵士の墓の前で、跪くことができるでしょうか。ポーランド共和国を守るために、生命を捧げた人々は、いったい何者だったというのでしょうか? ポーランド人でした、ポーランド兵でした――祖国のために命を捧げたポーランドの英雄です。もしかしたら心と感情の中に二つの祖国を持っていたかもしれませんが、間違いなくポーランドを持っていました――そうでなければそのために生命を落とすことはなかったはずです。 尊敬するみなさま! 改めて、ご出席にお礼申し上げます。私たちは大いなる共同体です。あの恐ろしい時代を振り返るとき、そして自らをポーランド人家族だと見なす家族と自らをユダヤ系ポーランド人家族と見なす家族の間にどのような違いがあるかを振り返るとき、第二次世界大戦というプリズムを通して振り返るとき、私はこう申し上げましょう――第二次世界大戦で誰一人失わなかったような、ポーランドの家族は第二次世界大戦後、一つもないと。 私もまた、ドイツ軍によって虐殺された抵抗軍兵士であった、祖父の兄を失いました。みなさまとの違いは、とても多くのユダヤ系ポーランド人家族が第二次世界戦後、まったく存在しなくなったことです。一人も生き残ることなくです。 それ故に、私たちの誰もが、ホロコーストの犠牲者に大いなる敬意を捧げなくてはならないのです。それ故に、私たちの共通の犠牲者なのです――私たちは共同体だからです。重ねて、みなさまのご出席にお礼申し上げます。 [1] 2016年のハヌカ祭は12月24日、2019年のハヌカ祭は12月22日に祝われた。

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