19.04.2023 ニュース

私たちはこの記憶の守護者――ワルシャワ・ゲットー蜂起 80 周年

1943年4月、ユダヤ教の祝日〈過越(ペサハ)〉の前日、ポーランドの首都を占領していたドイツ軍は、自らが開設したユダヤ人居住地区ワルシャワ・ゲットーを、その最終的解体に備えて包囲しました。4月19日、ドイツ警察とSS補助部隊が、絶滅行為を完遂すべくゲットーに突入しました。ゲットーの住民は退避壕や隠れ家に潜みました。ユダヤ人蜂起兵は、銃器、火炎瓶、及び手榴弾を使ってドイツ軍を攻撃しました。ガソリン入りの瓶で、2台のドイツ軍車両に火が放たれました。虚を突かれたドイツ軍は当初、ゲットーを防衛する人々の激しい抵抗を突破するできませんでした。

 こうした失敗に直面して、ドイツ軍は片端から建物を燃やし始め、ゲットーの街路を火の罠へと変えていきました。ゲットー内で戦闘が継続している間に、ポーランド地下軍の部隊は抗独行動に着手しました。国内軍の3分隊が、不首尾に終わりはしましたが、爆発物で壁を突破しようとしました。絶滅を宣告されたユダヤ人は5月初頭まで自己防衛のために戦いました。蜂起の象徴的な終幕は、ドイツ軍によるワルシャワのトウォマキェ通りにある大シナゴーグの破壊でした。

 ワルシャワ・ゲットー蜂起は、ドイツ占領期における、最初の大都市蜂起であり、同時にユダヤ系住民による最大の抵抗運動でした。1943年4月19日午後、ムラヌフ広場に面したユダヤ人軍事連合の拠点の屋根に、闘士たちは象徴的な行為としてポーランドの白赤の旗とユダヤ人軍事連合の白青の旗を立てました。ポーランドの白赤とシオニストの白青という2つの旗が、戦うゲットーに聳える建物の屋上に並んで翻える光景は、ポーランド人とユダヤ人の分かちがたく結び合わされている運命の象徴となりました。十数か月後の1944年8月には、自由ポーランドを求める戦いであり、第二次世界大戦史における祖国解放のための最大の抵抗運動であった、ワルシャワ蜂起が勃発しました。

 ポーランドの歴史・文学・芸術、そして広義の文化には、繰り返されてきた蜂起という抵抗運動への一連の言及を見出すことができます。蜂起は希望を与え、精神を高め、心を癒しましたが、ほとんどの場合、分割の当事者と占領者によって残酷に鎮圧されました。悲劇的でしばしば避けがたいものであった蜂起は、共同体の自己同一性を構築し、概ね、年月を経た後に勝利をもたらしました。ポーランド社会とポーランド史に深い痕跡を残しました。それ故に、文学・絵画・映画でしばしば取り上げられる主題になったのです。そして、芸術家はさまざまな方法でそれを描いてきましたが、蜂起の理念そのものを批判することはほとんどなく、自由を求める戦いを支持し、文化的に称揚しました。

 ポーランドの首都ワルシャワは、第二次世界大戦中、ユダヤ人とポーランド人がドイツの犯罪者たちと闘争を繰り広げた、2度の蜂起が起きた街になりました。街は最終的に廃墟に変えられ、破壊され炎上しました。これは、自由を志向するというポーランド的命題の強さを証明しています。

 なぜワルシャワだったのか?――と問うてみることもできます。ここで想起しておくべきは、1939年、ドイツによるポーランド侵攻前夜に、ワルシャワには37万人近くのユダヤ人が住んでいたということです。彼らは市の総人口の約30パーセントを構成していました。第二次世界大戦勃発後の1年間に、さらに10万人近くのユダヤ人が、第三帝国に併合された地域と占領されたポーランド領からドイツ軍によって次々と追放されて、ポーランドの首都にやってきました。1940年春、ドイツ人は閉鎖されたユダヤ人地区を造り始めました。ワルシャワ・ゲットーが最終的に閉鎖されるに至ったのは、1940年11月。壁の向こうにある307ヘクタールの広さに、約40万人のユダヤ人が入れられました。1941年4月、再移住者たちがゲットーに流入しました。ゲットーの壁の中に閉じ込められた人々の数は45万人に増大しました。私は、徒にこれらの統計数字を引用しているのではありません。ワルシャワ・ゲットーは、第二次世界大戦中にドイツ軍によって造られたヨーロッパ最大のゲットーでした。1942年7月、占領軍はゲットーからトレブリンカ絶滅収容所へのユダヤ人大量移送を開始しました。当時、25~30万人のユダヤ人が殺害されたと推定されています。ゲットーでは、ドイツ軍が生み出した非人道的な条件に起因する飢餓と病気で、約10万人が亡くなりました。

 私たちは「ユダヤ人」と言いますが、彼らは多国籍・多文化であった第二共和国ポーランドの国民であったことを記憶しておかなくてはなりません。それ故に、私たちの共通の義務は、第二次世界大戦中最大のユダヤ人蜂起であり、占領下のヨーロッパで最初の都市蜂起であったワルシャワ・ゲットー蜂起を記憶に刻み、ドイツ占領軍に抵抗した人々の勇気を記憶に保持することなのです。ポーランドではこの時期に、ワルシャワ・ゲットー蜂起80周年の公式行事に合わせて、150以上の催事が行われます。これらの催事は、文化国家遺産省が実施する、ポーランド在住ユダヤ人の遺産と記憶を保存するための活動支援プログラムなどの一環として、ポーランド政府によって主催または資金提供されています。統一右派が政府の座に就いて以来、私たちは、多文化的ポーランド民族の記憶・文化・遺産(そこには、ポーランドの国土におけるユダヤ人少数民族の遺産も含まれます)を尊重すること、そして、占領下ポーランドでドイツ軍によって行われたユダヤ人絶滅を記憶に刻むことを活動分野とする機関への資金提供額を3倍以上に増大させました。

 ポーランド政府による助成対象機関の中には、ナチス・ドイツの元〈死の収容所〉に置かれている国立博物館があります――オシフィエンチムのアウシュビッツ=ビルケナウ博物館、マイダネク博物館(支部である、ベウジェツとソビボルの博物館+追悼施設を含む)、シュトゥトボのシュトゥットホーフ博物館、トレブリンカ博物館、ロゴジニツァのグロースローゼン博物館、クラクフのプラショフKL(強制収容所)博物館+追悼施設。その他、ワルシャワ・ゲットー博物館、マルコヴァのウルマ家記念第二次世界大戦でユダヤ人を救ったポーランド人博物館、オシフィエンチム地方住民追悼博物館、ポーランド・ユダヤ人歴史博物館POLIN、エマニュエル・リンゲルブルム記念ユダヤ歴史研究所も。これらは、何十年にもわたって活動し、しかし過去においてはしばしば不十分な資金しか提供されなかった機関であり、またワルシャワ・ゲットー博物館、マルコヴァのウルマ家記念第二次世界大戦でユダヤ人を救ったポーランド人博物館、オシフィエンチム地方住民追悼博物館のような、記憶の尊重のために最近数年間に設立された機関です。

 ワルシャワは今日、生きている人々の街です。ポーランドは生きている人々の国です。私たちは過去を記憶し、歴史的な経験を参考にしながら、よりよい未来を築くことを望んでいます。しかし、私たちは亡くなった人々や殺害された人々のことを忘れることはありません。幾世代にもわたって伝えられてきた記憶は、永続しなくてはなりません。そして今日、私たちがその守護者なのです。

 

ピョトル・グリンスキ

 このテキストは、国立記銘院とポーランド国家財団との歴史プロジェクトの一環として、ポーランドの月刊誌「最も大切なことのすべて(Wszystko co Najważniejsze)」に同時掲載されました。

 

ピョトル・グリンスキ教授

 人文学正教授。副首相、文化国家遺産大臣。2005~2011年、ポーランド社会学会会長。ポーランド科学アカデミー哲学社会学研究所所属。1997~2005年、同市民社会講座長。

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