27-04-2021 ニュース, ポーランドの歴史コラム

1791年5月3日憲法とその記憶

                                                                          白木太一

1791年5月3日、ポーランド=リトアニア連邦国家(共和国)国会は憲法を制定した。同年のフランス憲法に先立つこと数か月、この憲法はヨーロッパ初の近代成文憲法となった。以下では、憲法制定の背景、憲法制定とその内容、憲法の記憶について述べてみたい。

憲法制定の背景 近世の共和国は、シュラフタ(貴族)が国王を選び国会を運営する国制であった。16世紀の共和国は穀物貿易の好況と相俟って黄金期を迎えたが、17世紀半ば以降、周辺国家の侵攻と相まってマグナート(大貴族)の影響力が強まった。その結果、1652年以降国会ではマグナートの利害に基づいてリベルム・ヴェト(自由拒否権)が濫用され、事実上機能停止に陥った。以後の共和国では、国制麻痺の克服が喫緊の課題であった。

1764年、啓蒙君主スタニスワフ・アウグストが国王に選出されると改革の機運が盛り上がった。とりわけ1780年代には、国王とフーゴ・コウォンタイが改革を主導した。前者は行政機関と官僚集団の整備を中心に国制再建を唱え、後者は国会の健全化を重視した。改革の動きは四年国会(1788~92年)開催後にさらに高まる。この国会は改革派の主導のもと、ロシアが対トルコ戦争に忙殺されている時機に共和国の改革を進め、多くの法規を制定した。1790年になると、国会はさらに二年の会期延長を行い、改革のテンポが加速した。

憲法制定の経緯とその内容 1791年になると憲法制定作業が進行していった。中心人物は国王、コウォンタイ、イグナツィ・ポトツキ、スキピオーネ・ピアットーリらであった。彼らの調整の中で憲法草案が編まれていった。さらに同年5月2日には、国会議長スタニスワフ・マワホフスキ邸に83名の議員たちが集結し、憲法制定決議文への署名を行った。翌5月3日早朝、多くのワルシャワ市民が見守る中、王宮内の元老院の間には国王と182名の議員が集まった。彼らによってその日に制定されたのが、序文と11条からなる憲法(正式名称は『統治法』)である。

その特徴を以下に要約する。宗教に関しては、ローマ・カトリックを支配宗教と規定しながら、他宗派に対する保護も保障された。諸身分に関しては従来の身分制を維持しつつも、シュラフタの一部の参政権を剥奪する一方で一部の有産都市民に国会参加権を与えて、身分制度の部分的再編が図られた。国会は常設化され、決議方法も全会一致が廃されて多数決制が導入され、代議員は「国民全体の代表」と規定された。行政機構に関しては、国王と5名の大臣からなる最高行政機関「法の番人」が設置され、主要な省庁を従えた。そして大臣の国会に対する責任が明確化された。国王に関しては、ザクセン選帝侯家の世襲制が導入された。また、ポーランド王国とリトアニア大公国の連邦制は維持されたが、両地域の対等性がより強められた。総じてこの憲法は、国会・政府の効率性を重んじて、近世共和国の共和政理念の時代に見合った再建を示す、画期的な内容を含んでいた。

憲法制定後の共和国 憲法制定後、憲法に対する賛否が国会内外で活発に論議された。1792年2月の地方議会でも、大半の地方が憲法に賛同した。しかし、共和国が先進的な憲法を制定したことは近隣諸国の警戒感を惹起した。その直後、反憲法の保守派マグナートたちによってタルゴヴィツア連盟が結成され、それを後ろで操るロシア軍の介入でポーランド=ロシア戦争が起き、ポーランド側の敗北で憲法体制は制定後一年足らずで効力を失った。さらに1793年の第二次分割で共和国領土の多くを奪われ、1794年のコシチューシュコの蜂起も敗北に終わり、翌年には残っていた領土も完全に分割され、国家が滅亡した。

記憶の中の憲法 国家滅亡後、憲法は近世共和国の優れた遺産の象徴として長く記憶の中で語られ続けた。

1831年4月、11月蜂起時に書かれた大衆歌《ようこそ、五月の朝焼け》もその一つである。マズルカのリズムで歌われるこの歌詞は、憲法の精神を称え民族の矜持を高めようするものだが、当時の庶民感情の中に憲法の記憶が生きていたことを如実に示している。

 また、一九世紀末には絵画の分野では、憲法制定100周年にヤン・マテイコが描いた大作《五月三日憲法》が有名である。採択された憲法への忠誠を誓うため、ワルシャワ市民の歓呼の中で国王や主な参加者が聖ヤン大聖堂に入場しようとしている光景である。聖堂に入ろうとする国王と、その後ろで憲法支持派に担がれている国会議長マワホフスキ、さらに周辺にはタデウシュ・コシチューシュコや国王の甥ユゼフ・ポニャトフスキ、草案作成の中心になったコウォンタイやイグナツィ・ポトツキやピアットーリも描かれている。ひときわ異彩を放っているのは、子供とともに体を張って制定に反対した保守派貴族ヤン・スホジェフスキである。ただし、彼の行動は実際には聖堂前ではなく、王宮内でなされている。

 1795年の共和国滅亡後、憲法が公の場で祝われることはなかった。その機会が巡ってきたのは第一次世界大戦後である。大戦後にポーランドが再独立すると、1919年4月28日の立法国会において5月3日が祝日に制定された。しかし第二次大戦後の1946年には、公の場での憲法祝祭は再び停止された。さらに人民共和国時代の1951年になると、5月3日は祝日から「教育の日」に格下げされてしまった。だが、1989年の民主化後の1990年4月6日、5月3日の記念日としての祝日化が再び下院で可決され、現在に至っている。ちなみに、我が国でも5月3日は憲法記念日だが、これはあくまで偶然の一致に過ぎない。

(参考文献)白木太一『[新版]1791年5月3日憲法』(ポーランド史叢書)群像社、2016年

J-P, Norblin, Uchwalenie Konstytucji 3 Maja 1791 r.,Biblioteka Kórnicka PAN
     (ポーランド科学アカデミー、クルニク図書館所蔵)