Janusz Korczak
ヤヌシュ・コルチャック
1878年7月22日 – 1942年8月
ポーランドの小児科医、孤児院院長で、児童文学作家。本名は、ヘンリク・ゴルトシュミット(Henryk Goldszmit)。ユダヤ系ポーランド人。父は弁護士だったが、早くに亡くなった。ワルシャワ大学医学部を卒業。それに先立ち、1896年に作家としてデビュー。社会批判的なまなざしをもった写実的な作風が顕著である。1907-11年ロンドン、パリ、ベルリンで1年近く研修、特にベルリンで障害児教育の現場に触れ、小児科医としての決意を固める。ポーランド帰国後、既に学生時代の1904年から夏のキャンプのボランティアとして関係のあったワルシャワ慈善教会との係わりを深め、ナチス・ドイツの統治下のワルシャワゲットーで、ユダヤ人孤児の孤児院を運営することになる。ワルシャワ慈善教会は、当時、ロンドンやシカゴでも始まっていたセツルメント事業をやっていた組織で、慈善食堂や診療所、無料図書館、孤児院などの事業を手がけていた。
新しい教育思想提唱者、育児理論・実践に関する著作の作者。子どもの権利と子どもたちの完全な平等のために活動した先駆者。「孤児たちの家」院長として、子どもによる友人裁判所を創設した。子どもたちは、自ら告訴した案件を審理したこの裁判所では、教師が被告にされることもあった。コルチャックが開設し、院長を務めた「孤児たちの家」をたびたび訪問した著名なスイス人心理学者ジャン・ピアジェは、コルチャックについて次のように語っている――「彼は、素晴らしい人間だった。自らが養育した子どもと青年を信頼する、勇気を持つ人間だった。それは、彼らの手に規律の管理を委ね、極めて大きな責任を伴う、このうえなく困難な課題を各人に託すまでに強い信頼だった」
コルチャックは、子どもたちが投稿した文章を基に編集した、主に子どもの読者を対象にした最初の雑誌「子どもの意見」を創刊した。子供の成長と心理、そして教育診断に関する研究を行ったパイオニアの一人だった。
ポーランド国籍を持つユダヤ人であった彼は、生涯にわたって、自分は両方の民族に属していると公言していた。[1]
コルチャック先生 子どもの権利条約の父 (講談社の翻訳絵本)
コルチャック先生 子どもの権利条約の父 (講談社の翻訳絵本)
トメク・ボガツキ (著), 柳田 邦男 (翻訳)
コルチャック先生のいのちの言葉
コルチャック先生のいのちの言葉
ヤヌシュ コルチャック (著), サンドラ ジョウゼフ (著)
王さまマチウシI世―コルチャック先生のお話
王さまマチウシI世―コルチャック先生のお話
ヤヌシュ・コルチャック (著), 高橋 貞二 (イラスト), 近藤 康子 (翻訳)
生涯
生涯
クロフマルナ通りの孤児院ドム・シエロ、1933年以前
現在のドム・シエロ、三階の屋根裏部屋がなくなっている。建物正面にあるのはコルチャックの記念碑。裏にはコルチャックの主だった協力者数人の生没年と事績を書いた金色のプレートが貼られている。建物の入り口は階段を上った二階正面。その右手に細長く高いモニュメントがあるのもコルチャック像。二階入って右手にコルチャック研究所がある。
ワルシャワのユダヤ人墓地にあるコルチャックと子どもたちの記念碑
イスラエルにあるコルチャックと子供達の記念碑(1978年、Boris Saktsier)
青年時代と教育 コルチャックは、ワルシャワで、ポーランド人に同化したユダヤ家庭に生まれた。父は弁護士のユゼフ・ゴルドシュミト(1844-1896)、母はツェツィリア(旧姓ゲンビツカ)(1853/4-1920)。戸籍原本が保存されていないため、生年月日を正確に特定できない。 父方のゴルドシュミト家はルブリン県、母方のゲンビツキ家はポズナン県の出身。母方の曾祖父マウリツィ・ゲンビツキと父方の祖父ヘルシュ・ゴルドシュミットは医師だった。[45]父ヤヌシュ・コルチャックと母方の曾祖父の墓は、ワルシャワ市オコポヴァ通りのユダヤ人墓地にある(ただし、母親の墓は発見されていない)。
ゴルドシュミト家の経済状態は当初良好だったが、父親の精神病を機に悪化しはじめた(父は、1890年代初めに、精神疾患の兆候を示し、初めて精神病院に収容された)。父は1896年4月26日に死去した。その死後、17-18歳の生徒だったコルチャックは、家族の生計を支えるために、家庭教師を始めた。母親ツェツィリア・ゴルドシュミトはワルシャワの住宅の部屋を間借り人に貸した。コルチャックは20歳のときに、高校卒業試験に合格した。
読書好きの子どもだった。それから長い年月を経て、ゲットーで記された日記に、彼はこう書いている――「読書という狂気と熱狂にかかってしまった。世界は私の目の前から消え、本だけが存在していた」1898年にワルシャワの帝国大学医学部で学業を始めた。1899年夏、初めて外国に旅した。目的地のスイスで、ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチの教育活動と創作に出遇った。同年末、ワルシャワ慈善協会読書室での活動のために、短期間逮捕された。1学年を留年し、計6年間大学で学んだ。当時ワルシャワで行われていた秘密高等教育機関「飛ぶ大学」でも勉強した。大学時代に、貧しい人々、労働者、浮浪者が住む地区の生活を肌身に知った。「宗教の壁によって分けられているすべての人々を和解させ、他者への敬意を維持しつつ真実を探求する」ために設立された「人間の権利」国際連盟のフリー・メイソン「海の星」に属していた。[49]
医師 1905年3月23日、コルチャックは医師の資格を取得した。同年6月に、軍医として帝国軍に召集され(ポーランドは当時、三国分割下にあった)、日露戦争に従軍した。ハルビンで軍務に就いた。満州の子どもたちから中国語を習った。1906年3月末に、ワルシャワに戻った。1905-1912年の間、ベルソン&バウマン記念子ども病院で小児科医として勤務した。病院内に住まいを受け取る代わり、病院の宿直(いわゆる「住み込み医師」)として働き、献身的に義務を果たした。医師としての活動において、ワルシャワのプロレタリアート地区も進んで担当した。貧しい患者たちからは、おしるし程度の報酬しか受け取らず、逆に薬代を与えすらした。一方、富裕な患者からは、ためらうことなく高い報酬を要求したが、それを助けたのは、彼が文学者として高い名声を得ていたからだった。 1907-1910/11年には外国でさらに勉学を積んだ。講義を聴き、小児科で研修を受け、教育・養護施設を見学した。ベルリンには1年弱(1907-1908)、パリには4か月(1910)、ロンドンには1か月(1910年または1911年)滞在した。後年記しているところによると、ロンドン滞在中に、生涯結婚をしない決断を下し、「子どもと子どもの問題に生涯を捧げる 」ことにしたという。そのころ彼は、ワルシャワ衛生協会とワルシャワ夏期学校協会(TKL)に属し、積極的に社会活動に従事した。1904、1907,1908年には、ユダヤ人とポーランド人の子どもためにTLKが催した夏期学校に参加した。1906年に『サロンの子ども』を出版し、読者・批評家から高い評価を得た。そのころから、著作がもたらした名声も預かって、ワルシャワでも著名の人気小児科医になった。1909年に、ユダヤ人協会「孤児への援助」に加わった。協会は数年後に、自らの「孤児たちの家」を建設し、コルチャックが院長になった。 第1次世界大戦中、再度、ロシア帝国軍に召集された。主にウクライナで、野戦病院副院長として勤務した。1917年に、キエフ近郊にあったウクライナ人の子どものための養護施設で医師としての勤務を命じられた。その2年前、キエフで短い休暇を過ごしていたときに、ポーランドの社会・独立活動家でポーランド人少年のための養育施設を経営していたマリア・ファルスカ(旧姓ロゴフスカ)と知り合った。ロシア軍での勤務を大尉の位で終えた後、1918年6月にワルシャワに戻った。ポーランドが独立を宣言した(1918年11月11日)後、間もなく、コルチャックは再び軍隊に戻った。ポーランド・ボルシェヴィキ戦争(1919-1921)中には、ウッチとワルシャワの軍事病院で医師としての勤務に就いた。チフスに感染した。勤務が認められて、ポーランド軍少佐に昇進した。
教育家 教育観 少年時代から、子どもの教育に関する問題に関心を持ち、「新しい教育」の理念と経験の影響を受けていた。ジョン・デューイが提唱した進歩主義教育運動、ドクロリ、モンテッソーリ、さらにはそれ以前のペスタロッチ、スペンサー、フレーベルといった教育家の論文に関心を持っていた。トルストイの教育概念にも通じていた。[51]子どもとの対話の必要性を強調した。子どもの教育や教育学に関連した様々なテーマで著作講演活動を行った。子どもをめぐる仕事の経験は、最初は家庭教師、次に社会活動家、やがて「孤児たちの家」院長、「私たちの家」共同創設者として積んだ。戦間期には、国内のさまざまな大学で教鞭をとった――国立特殊教育学研究所(今日の、マリア・グジェゴジェフスカ記念特殊教育アカデミー)、国立ユダヤ教教員セミナー、国立教師研究所などである。 コルチャックは、子どもの啓蒙、子どもの独立、子どもの権利の尊敬を主張した。コルチャックの教育施設では子ども自治組織が活動し、日ごろから民主主義の原理が実践されていたが、コルチャックはそれを、子どもにも大人にも同様に適用したのだった。「子どもは大人と同じように、感じ理解する――ただ大人ほど経験を積んでいないだけだ」 子どものために子どもによって出版されていた雑誌は、子どもたちの発言の場であり、才能を鍛える道場であり、特に正統的なユダヤ人家庭の子どもたちがポーランド人に同化するための、重要な土台になった。医師としてのコルチャックは、社会最下層の子どもたちの社会復帰とその総合的で近代的な保育を主張した。 子どもの居場所は、家の片隅ではなく同年齢の者たちと共にすごす場であるべきだと主張した。彼は、子どもたちはそれ以前に抱いていた確信や形づくられつつある見解を鑢にかけ、社会化のプロセスを経験し、それによって大人としての生活に向けて準備すべきである、という思想に向かった。子どもは自分の置かれている状況を自ら理解し、感情的に経験し、自ら結論を引き出し、予想される悪い結果を回避できるようになるべきだと考えていた。「すべての子どもは人間である」――コルチャックは書いている。 彼が診療し教育したすべての子どもたちは、すべて自分の子と見なしていた。後年の彼の活動は、こうした彼の立場の証明である。利他主義的な確信を抱いていた彼は、お気に入りの生徒の小集団を特別扱いしたり、褒めたりすることをよしとしなかった。伝統的な意味での家庭が、社会の絆の最も重要で根本的な単位であるとは考えなかった。家庭が社会の保守的なキリスト教層や伝統的なユダヤ人層で果たしていた役割を、認めなかった。
コルチャックの教育思想の最も重要な要素は、以下である。 - 年長であることや、果たしている社会的役割に起因する、身体と言葉の暴力の排除 - 大人と子どもが教育現場で交流するという理想――これは、古典的な教育学の定義を拡大するものである - 子どもは大人とまったく同じ程度に人間的な存在であるという確信 - 教育プロセスは、それぞれの子どもの個性を考慮に入れるべきであるという原則 - 子どもは自分の要求、願望、感情を最も良く知っているという確信。子どもは、大人にその意見を考慮に入れさせる権利を持つ - 子どもに、尊敬、無知、失敗、プライバシー、独自の見解、所有の権利を認めること - 子供の成長過程は困難な労働であると認めること
現代における受容 今日、ヤヌシュ・コルチャックは様々な教育思想の創始者であると見なされ、子どもの権利のコルチャック的理解は、多くの現代思想家によって参照されている。[52]「世界を改革すること、すなわち教育を改革することである」――コルチャックはこう考えていた。 コルチャックは、今日「道徳的教育(moral education)」と呼ばれる教育思想の創始者のひとりである。[53]最も彼は、このテーマに関して、組織だった理論はまったく作らなかったが……。[54][55]彼の教育に関する現代的な着想は、実践に依拠していた。彼は、同時代の教育・心理思想に通じてはいた[56]が、教育の原理主義には反対だった。イゴル・ネヴェリによると、コルチャックは、具体的な政治思想や教育原理を己れのものと見なそうとはしなかった。[57] それにもかかわらず、コルチャックはいくつかの思想の創始者であるとされている。コルベルクは、子どもたちの公正な社会(Children Just Community)という彼の思想は、コルチャックの実践に基づいていると考えている。[59]コルチャックとパウロ・フレイレは学校における民主主義と対話理論について、類似した見解を持っていると指摘されている。教育的愛(pedagogical love)の支持者は、コルチャックが構築した教師・生徒関係のモデルを自らの理論基盤にしている。[60]別の研究者たちは、コルチャックとマルチン・ブーバーの思想の中に、「宗教教育」思想の端緒が見出せるとしている。[61]コルチャックの思想は、知的障害を持つ子どもたちの教育の「平常化思想」に応用されている。[62]子ども保育に対する彼のアプローチは、子どもを守るために行われた、戦後の立法イニシアチブに影響を与えた。こうしたイニシアチブに大きく関わったのが、1959年の子どもの権利宣言作成に積極的に参加したポーランドである。ポーランドはまた、1989年に国連が採択した「子どもの権利に関する国際協定」の成立を提案した。
「孤児たちの家」と「私たちの家」 ステファニャ・ヴィルチンスカとともに、「孤児たちの家」を設立し経営した。これは、クロフマルナ通り92番地にあったユダヤ人協会「孤児への援助」が資金を提供した、ユダヤ人の子どもたちのためのワルシャワの「孤児たちの家」だった。1912年10月7日、「孤児たちの家」は活動を始め、コルチャックは院長になった。教頭になったのはステファニャ・ヴィルチンスカ(ステファ夫人と呼ばれた)(1886-1942)だった。コルチャックは、30年間にわたって「孤児たちの家」院長を務めた。1940年10から11月にかけて、「孤児たちの家」はフウォドナ通りのゲットーに移転した。移転に関して抗議を行ったことから、コルチャックは逮捕された。ナチス・ドイツ軍は彼をパヴャク刑務所に収容したが、数週間後には保釈金で釈放された。 1919年から、コルチャックはマリア・ファルスカとともに、ポーランドの子どもたちのための第二の保育施設「私たちの家」を設立した。当初それは、ワルシャワ郊外のプルシュクフにあったが、1928年からは首都中心部ビェラニに置かれた。ファルスカとの協力は、1936年まで続いた。「私たちの家」でもまた、現代的な教育手法が用いられた。 両施設は7~14歳の子どもを対象にし、自治的社会の概念を実践していた。そのなかで、下院、裁判所、新聞、宿直制度、法律事務所、貸付口座が作られた。養育・教育活動に対して、コルチャックは1925年11月11日(国民の祝日である独立記念日)にポーランド復興勲章授与が決まり、翌1926年に受けた。
作家、評論家、ラジオ・パーソナリティ 1896年9月26日に、週刊誌「棘」にデビュー作を発表した。中学生だった彼は、雑誌への発表を許されず、そのために「ヘン」という変名で署名した。その後は、「ヘン=リク」「ハゴト」「老医師」などのペンネームを使った。ヤナシュ・コルチャックの変名は、「ヤヌシュ・コルチャック」に変えられ、本名よりよく知られるようになったが、これはJ・I・クラシェフスキの長編小説『ヤナシュ・コルチャックと美しい刀番夫人』からとられたものだった。初めてこの名を使ったのは1898年、戯曲コンクールに応募した4幕劇『どこを通って?』の著者名としてだった。1900年から、ヤヌシュ・コルチャックの名で作品の発表を始め、個人的な書簡にもそうサインしたが、それ以外のペンネームも使い続けた。 ヘン=リクの名で、風刺週刊誌「棘」に作品を発表した。1901年から小論説の執筆を始めた。1905年には、「棘」に発表された小論説を抜粋した『コシャウキ・オパウキ』と長編小説『街路の子どもたち』が出版された。 コルチャックの作家として作品は、24冊の著作と様々な雑誌に発表された1400編以上の文章から成る。現存している手稿、タイプ原稿、書類(約300通の手紙を含む)は、わずかである。最も重要な教育に関する著作と考えられているのは、4部作『子どもをどのように愛するべきか』(1920)、『教育の契機』(1924)、『私がまた子どもになったら』(1925)、『子どもが尊敬を受けるべき権利』(1929)、『冗談半分の教育』(1939)だ。児童文学の中で特に人気があるのは、20以上の言語に翻訳された『マチュシ一世王』と『無人島のマチュシ王』(1923)、『幼いジェクの破産』(1924)、『生きることの法則』(1930)、『魔法使いカイトゥシ』(1935)だ。 文学活動に対して、コルチャックは1937年、ポーランド科学アカデミー文学部門黄金の月桂冠を授けられた。[48]第2次世界大戦中には日記をつけていたが、これは、それが成立したときの状況や、著者の戦争体験を物語る貴重な作品である。 コルチャックは教育活動に、当時としてはとても新しいメディアを用いた。子どもと青年のための新聞『子どもの意見』(1926-1939)を創刊した。この雑誌は、ワルシャワの新聞『私たちの意見』への毎週の付録として刊行されていた。第1号は、1926年10月9日に出版され、これは子どもたちが作るポーランドで最初の雑誌だった。1930年以後編集長に就任したのは作家イェジ・アブラモフで、コルチャックの秘書を務めていた。彼は、戦後イゴル・ネヴェリの名で知られるようになった。 この雑誌は、1930年代に反ユダヤ主義、人種的不寛容と分離主義が強まったにもかかわらず、活動を続けた。終刊号となったのは、1939年9月1日号である。 偉大な教育家は、「老医師」の名で、一連のラジオ番組を放送するという活動も行った。彼は最も若い聴取者に語りかける独自のスタイルを作り上げ、重要な事柄を素朴な方法で語った。1936年に、医師の番組は放送を禁止された。聴取者や批評家は熱狂的に評価していたが、反ユダヤ主義的風潮が強まり、それに関して外部からの圧力が強まったためだった。コルチャックは2年後にラジオに戻り、1939年9月初めに戦争が勃発してからも、ポーランド・ラジオ局の聴衆に語り続けた。
第二次世界大戦、ゲットー、最後の行進 第二次世界大戦勃発後、ポーランド軍将校であるコルチャックは、軍に志願したが、高齢のため受け入れられなかった。ドイツ軍占領下でも、ポーランド軍の軍服を着ていた。ナチスがユダヤ人に強制した民主差別的なダヴィデの星も、民族の象徴を侮辱するものとして、認めようとしなかった。生涯の最後の数か月をワルシャワ・ゲットーで過ごした。ゲットーでは、1939年に始めた再び日記を、定期的につけるようになった。その前の2年間は、「孤児たちの家」の子どもたちの養育、さらにはゲットー内の子どもたちの全体的状況に関する活動にエネルギーを費やしたため、日記をつけていなかった。日記が初めて刊行されたのは、1958年のワルシャワである。最後のメモは1942年8月4日付の記述である。 「1942年8月5日または6日の朝、小ゲットー全域は、親衛隊部隊とウクライナ・ラトヴィア人警察に取り囲まれた。いわゆる「大アクション」(ワルシャワ・ゲットーのドイツ軍によるユダヤ人虐殺)が続いているときに、救済の手が差し伸べられたが、子どもたちと「孤児たちの家」の職員から離れたくなかったので、断った」ゲットーからの移送の日、コルチャックは絶滅収容所への移送列車の始発駅であるウムシュラクプラツまで、子どもたちの行進の先頭を歩いた。行進には約200名の子どもと、ステファニャ・ヴィルチンスカなど、数十名の教師が加わった。彼らの最後の行進は伝説になった。戦後神話の一つとなり、さまざまな回想のなかで言及されているが、その細部に関しては首尾一貫しておらず、信用するに足りない。 「私は神話を冒涜するつもりも、神話を日常化するつもりもないが、見た通りを語っておかなくてはならない。辺りを支配していたのは、恐るべき混乱と機械的な無感動だった。コルチャックが歩いていることへの感動も現れていなければ、敬礼する者もいなかった(敬礼していたと書いている者もいるが……)。ユダヤ評議会委員からの抗議もなければ、コルチャックに近寄る者もいなかった。身振りもなければ、歌もなく、誇りたく擡げられた頭もなかった。人々は誰かが「孤児たちの家」の旗を掲げていたと言っているが、私は憶えていない。疲れたような恐ろしい静寂が支配していた。(……)子どもの一人がコルチャックの袖を掴んでいた。腕だったかもしれない。疲れたように歩いていた。私は彼らを、ウムシュラクプラツの門まで案内した。」[66] 別の回想によると、子どもたちは4列縦隊で歩き、彼らの教師が著した小説の主人公であるマチュシ1世の旗を掲げていたという。子どもはそれぞれ、お気に入りの玩具か本を持っていた。少年の一人が行進の先頭に立ち、バイオリンを弾いていた。[67]ウクライナ人とSSが笞を鳴らし、子どもたちの群れの上に発砲していた。最も行進を率いていたのは、子どもたちに親愛感を抱いていた軍人の一人だったのだが。1942年8月6日、ナチスのいわゆる「ユダヤ問題最終解決」の名の下、孤児院の200人の子供たちは、孤児院を出て、緑の旗を立てて、集荷場と名付けられたユダヤ人をゲットーから移送するための駅まで行進し、親衛隊によりトレブリンカ強制収容所(正しくは、Vernichtungslager Treblinka、トレブリンカ抹殺キャンプ)に移送された。コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、恐らく1942年8月6日、ナチスにより到着のその日に、子供たちと共にガス室で殺害された。あるいは、遺体を埋めるための大きな穴(現在のトレブリンカの強制収容所の跡地の22番と番号の振られた箇所)の前で、子どもたちと共に銃殺されたという説もある。トレブリンカの犠牲者の記念碑は、数多くの自然石を配列したもので構成されている。そのうちの一部には、これらの犠牲者がここに移送されてきた土地の名、都市名や小さな町や村の名が刻まれているが、そのうち唯一例外的に「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と刻まれている記念碑がある。
民族意識 ヤヌシュ・コルチャックは、自分はユダヤ人でありポーランド人であると考えていた。ポーランド人とユダヤ人の相互理解のために活動した。彼の母国はポーランド語であり、その言語で創作を行った。ヘブライ語の勉強を始めたのは、シオニズム運動に接近した1930年代になってからで、ポーランドに住む大多数のユダヤ人の言葉であるイーディシュはドイツ語の知識があったので、少しばかり理解できた。1930年代になってようやく、ユダヤ人の民族的再生に関心を持つようになった。彼は青年シオニスト組織の機関紙との協力を始め、彼らのセミナーにも参加した。この時期、彼は私生活でも職業生活でも危機を経験した。1934年と1936年に行った2回のパレスティナ旅行のおかげで、この危機からある程度脱することができた。彼が旅したのは、過去を受け入れることで、現在――さらには未来に手を伸ばす――について考察するための支えを手に入れるためだった。」
映画 – 「コルチャック先生、あなたは自由ですよ」――1975年ドイツ映画、あれクラクフサンデル・フォルト監督。映画の内容は、コルチャック晩年の数年間。コルチャック役レオ・グレン – 「コルチャック先生」――1990年、アグニェシュカ・ホラントのシナリオによるアンジェイ・ワイダ監督作品。コルチャック博士の運命を描く。同時に、「ラインハルト作戦」中に、「孤児たちの家」の子どもたちと教員に対して行われたナチスの犯罪行為を断片的に描く。コルチャック役を演じたのは、ヴォイチェフ・プショニャク。
注釈
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- Kohlberg, L. (1981): Education for justice: The vocation of Janusz Korczak. [In:] L. Kohlberg (Ed.): Essays on moral development, Volume 1: The philosophy of moral development (pp. 400–407). San Francisco: Harper and Row.
- Gadotti, M. (1998): Janusz Korczak as the pioneer of child’s rights. The Sixth International Janusz Korczak Conference. Israel: Kibbutz Lochamei Haghetaot
- Hatt, B. E. (2005). Pedagogical love in the transactional curriculum. Journal of Curriculum Studies, 37(6), 671–688.
- Boschki, R., 2005, Re-reading Martin Buber and Janusz Korczak: Fresh impulses toward a relational approach to religious education, Religious education, 100, 114-126 DOI:10.1080/00344080590932391
- Reiter, S., Asgad, B., Sachs, S. 1990: The implementation of a philosophy in education – Korczak, Janusz educational principles as applied in special education, The British journal of mental subnormality, 1990, 4 -16
- Korczak, J.: Ghetto diary. New Haven, Conn: Yale University Press, 2003. ISBN 0-300-09742-5.
- Korczak J.: Pamiętnik. Wybór pism, tom 4, 1958.
- Korczak (film)
- M. Rudnicki: Ostatnia droga Janusza Korczaka. „Tygodnik Powszechny” 1988 nr 45
- Szpilman W., Pianista
- Wspomnienia Joshua Perle
- Anna Mieszkowska, Dzieci Ireny Sendlerowej WWL MUZA SA, str. 134, wiersz 5-19
- Korczak, J.: Janusz Korczak w getcie: nowe źródła (wstęp i redakcja naukowa Aleksander Lewin). Warszawa, Conn: Latona, 1992, s. 310.
- Betty Jean Lifton „The King of Children. A Biography of Janusz Korczak”. New York-Toronto 1988
- Maria Falkowska „Kalendarz życia, działalności i twórczości Janusza Korczaka”. Warszawa 1989
重要な著作
児童文学
『街頭の子ども達』Children of the streets (Dzieci ulicy, Warsaw, 1901)
Koszałki Opałki (Warsaw, 1905)
『サロンの子ども達』Child of the Drawing Room (Dziecko salonu, Warsaw, 1906, 2nd edition 1927) – *partially autobiographical
『モシキ、ヨシキとスルーレ』Mośki, Joski i Srule (Warsaw, 1910)
『ユシキ、ヤスキとフランキ』Józki, Jaśki i Franki (Warsaw, 1911)
Sława (Warsaw, 1913, corrected 1935 and 1937)
Bobo (Warsaw, 1914)
『マチウシ一世』König Hänschen der Erste ( Erstausgabe: 1923, “Król Maciuś Pierwszy” )
『子どものための美しい国』中村妙子訳 晶文社 1988年
『コルチャック先生のお話 マチウスⅠ世』近藤康子訳 女子パウロ会 1992
『マチウシ一世王』大井数雄訳 影書房 2000年
『孤島のマチウシ一世』König Hänschen auf der einsamen Insel (poln. Erstausgabe: 1923)
『ジャックの破産』Bankructwo małego Dżeka (Warsaw, 1924)
『もう一度子供になれたら』Wenn ich wieder klein bin (poln. Erstausgabe: 1925)
『もう一度子供になれたら』近藤康子訳 図書出版社 1993年)
『狂人の議会』Senat szaleńców, humoreska ponura (a screenplay for the Ateneum theatre in Warsaw, 1931)
『魔法使いのカイトゥシ』Kajtuś czarodziej (Warsaw, 1935)
教育学の著作
『人はいかに子どもを愛するのか』Wie man ein Kind lieben soll(poln. Erstausgabe: 1919)
『子どもの権利の尊重』Das Recht des Kindes auf Achtung(poln. “Prawo dziecka do szacunku”, Erstausgabe: 1928)
『生活の規則』Regeln des Lebens(poln. Erstausgabe: 1930)
『喜ばしい教育学』Frohliche Padagogik(poln. Erstausgabe: 1939)
参考文献
近藤二郎『コルチャック先生』(朝日新聞社、1990年12月)ISBN 978-4022562388
ベティ・ジーン・リフトン『子どもたちの王様―コルチャック物語』(翻訳:武田尚子、サイマル出版会、1991年7月)ISBN 978-4377208924
樋渡直哉『子どもの権利条約とコルチャック先生(ほるぷ150ブックス)』(ほるぷ出版、1994年1月)ISBN 978-4593535156
モニカ・ペルツ『コルチャック―私だけ助かるわけにはいかない!(生き方の研究)』(翻訳:酒寄進一、ほるぷ出版、1994年7月)ISBN 978-4593533626
井上文勝『戯曲 コルチャック先生 ある旅立ち』(文芸遊人社、1995年)
近藤二郎『コルチャック先生(朝日文庫)』(朝日新聞社、1995年6月)ISBN 978-4022611048
近藤康子『コルチャック先生(岩波ジュニア新書(256))』(岩波書店、1995年6月20日)ISBN 978-4005002566
新保庄三『コルチャック先生と子どもたち―ポーランドが子どもの権利条約を提案した理由』(あいゆうぴぃ、1996年6月)ISBN 978-4900801059
『コルチャック先生物語』(ピアソン桐原、1997年1月)ISBN 978-4342737602
サンドラ・ジョウゼフ『コルチャック先生のいのちの言葉』(明石書店、2001年11月30日)ISBN 978-4750315126
塚本智宏『コルチャック 子どもの権利の尊重―子どもはすでに人間である』(子どもの未来社、2004年6月)ISBN 978-4901330398
近藤二郎『決定版 コルチャック先生(平凡社ライブラリー) 』(平凡社、2005年6月)ISBN 978-4582765403
井上文勝『子どものためのコルチャック先生』(ポプラ社、2010年8月11日)ISBN 978-4591119839
トメク・ボガツキ『コルチャック先生 子どもの権利条約の父(講談社の翻訳絵本)』(翻訳:柳田邦男、講談社、2011年1月28日)ISBN 978-4062830508
ルペルト・ノイデック:文、ルーカス・リューゲンベルク:絵『ヤヌシュ・コルチャック』(絵本)Butzon&Bercker 2000年 – ドイツ語
ルペルト・ノイデック(de:Rupert Neudeck)は、ジャーナリストで、国際的な医療人道支援団体カップ・アナムル委員会(Komittee CAP ANAMUR)の創設者。ルーカス・リューゲンベルクはベネディクト会修道士。
受章
ドイツ出版協会平和賞 1972年(没後授与)
没後
1989年11月20日に国連総会で採択された「児童の権利条約」は、もともとコルチャックによる「子どもの権利」のアイディアに基づきポーランド政府が提案したものである。
ポーランド政府は、コルチャックの名を記念して、子どもの権利と生活のために多大な貢献をした人に授与するヤヌシュ・コルチャック賞を設けている。日本からは、黒柳徹子が「窓際のトットちゃん」でこれを受賞している。
1957年 エルヴィン・シルヴァヌスによる劇「コルチャックと子どもたち」が初演、ドイツの第二次大戦後最も数多く上演された舞台劇の一つに数えられる。
1990年ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが、コルチャックの物語を映画化する。ヴォイチェフ・プショニャックが、アニエスカ・ホランドの脚本に基づくドイツ・ポーランド合作映画「コルチャック先生」の中でコルチャックを演じた。
日本では1995年井上文勝の脚本により、劇団ひまわりが「コルチャック先生」を初演。コルチャック先生は、加藤剛が演じた。2006年9月にも俳優座の9月公演として「コルチャック先生」がやはり加藤剛の主演で上演された。
2002年、『マチウシ一世』を原作としてドイツ、フランス、ポーランド、ハンガリーの合作でTVアニメシリーズ「小さな王様マチウス」が製作され、12月TVで放映された。のち劇場版アニメが2007年9月公開された。絵本、DVD、ゲームなども販売される。
2006年2-3月、スコットランドのダンディー・レップシアター(Dundee Rep Theatre )が、ジェイムス・ブラウニングの脚本、デビット・グレイブの監督で「コルチャック先生の選択」を日本公演。
関連項目
児童の権利条約
新教育運動
外部リンク
ヤヌシュ・コルチャック年公式HP
ヤヌシュ・コルチャック記念ポーランド協会HP
www.janusz-korczak.de
Janusz Korczak Communication Center
Janusz Korczak Living Heritage Association (英語/スウェーデン語)、写真、作品)
Ojemba Productions presents ‘KORCZAK’ at the Edinburgh Fringe Festival 2005!
ドイツ・コルチャック協会 – ドイツ語。オーストリア、スイスのコルチャック協会と三者で「Korczak-Bulltein」という研究雑誌を1992年から刊行している。
Halina Birenbaum「ヤヌシュ・コルチャックについて」
KORCZAKIANUM記録研究センター – ワルシャワ市歴史博物館分館 (ポーランド語/英語)